ストリートで楽しむ「野毛大道芸」2010年10月01日 23:59

弊社の地元、野毛で毎年行われる「野毛大道芸」が、明日明後日行われます。

野毛大道芸


野毛大道芸

紅白に出演された伊藤多喜雄さんがこられる時は大変な盛り上がりになります。
1986年の第1回には早野凡平さんの名前も。懐かしい!

今年は中国雑技団が参加するとのこと。
明日は天気も良さそうですので、散歩にでかけてみましょうか。

聴く技術「サウンドスケープ」2冊2010年10月04日 23:59

サウンドスケープ
先日、Iさんから「サウンドスケープ」2冊拝借いたしました。

1997年 鳥越けい子著「サウンドスケープ その思想と実践」
2008年 小松正史著「サウンドスケープの技法 音風景とまちづくり」

サウンドスケープは「音風景」という造語ですが、これをカナダの音楽家マリー・シェーファーは人々を取り巻く音の概念として「これをデザインしよう」と提唱しました。
「騒音」の問題意識から出発しているのですが、それを禁止規制の対症療法的で固定的な方法論で進めて行く事に限界を感じたようです。

興味深いのは「騒音」をまとめて切り離すのではなく、私たちを取り巻く音に一つ一つに耳を傾け、そこに風景を感じていく作業が、音楽そのものの発見である、ということでした。

話がそれますが、今日私は真鶴に行き、背戸道と呼ばれる生活路地を歩きました。そこで耳にしたのはすぐ近くの港の船や機械の音です。私にはそれが騒音ではなく、安心感のある環境音として響きました。
絶え間ない港の操業音に時折響く鴎の声、不意に訪れる静寂に現れる波の音。真鶴の音風景です。

私たちの日常の中でも、聴覚に留まらず「耳を澄ませるように感じて行く事」でその隠された美しさや価値に改めて気付くのでは、、そんなことを感じました。

Iさん、引続きご指導よろしくお願いいたします!

「美の基準」真鶴町2010年10月05日 23:59

昨日、町内のまちづくりの参考にさせて頂くために、神奈川県の真鶴町に伺いました。
真鶴には有名な「美の基準」という、法令で裏付けられたまちづくりのルールがあります。

これはその「デザインコードブック」です。
真鶴

美の基準は8つ。
 1場所
 2格づけ
 3尺度
 4調和
 5材料
 6装飾と芸術
 7コミュニティ
 8眺め

それぞれをかみ砕いた69のキーワードが、理解の手掛りとともに挙げられています。
真鶴

町役場の方にご説明頂きましたが、この基準が出来た背景は、バブル期の開発圧力に町を守ろうとしたことが切掛で、当初は大規模開発に歯止めをかけるため、大規模開発には水道供給をしない、という条例を制定したそうです。
(とどめを刺すようなアグレッシブな条例ですね!)

制定には五十嵐敬喜・法政大教授が監修をされたそうです。しかし真鶴町が単なる「開発阻止」から一歩踏み込んで「美の基準」を制定するに至った経緯は不明との事でした。

ともあれ、町の中を散策しました。

真鶴
「背戸道」と呼ばれる路地も大切にされているそうです。

真鶴
地元の「小松石」の石垣とそこから咲く花も「美の基準」に符合するとのこと。

真鶴
もちろん、この階段も守られています。これは一般的な「まちづくり」からは驚愕の事なんですよね。普通は防災上良くないとされてしまいますから。

真鶴
時折家と家のすき間から港が。視界には入らなくとも操船の音や潮風にいつも港を感じます。

真鶴

真鶴
ふいに開ける眺望は清々しいですね。この眺めも守られています。

山坂道と狭い路地は、私自身の育った環境に近いのでとても親近感がありました。
条例は新しくできるものに対してのルールなので、何か特別な風情が休息に浮かび上がってくるものではありませんが、10年20年経った後の姿を想像するのが楽しみです。

ちなみに真鶴町は、その景観への取り組みが今年の「世界デザイン首都ソウル」で表彰されました。

わかりやすさの向こう側 未知を探す2010年10月06日 23:59

先日紹介させて頂いた「サウンドスケープ」に紹介されていますが、目を閉じて耳を澄ませ、暫く神経を傾けていると、今まで聞こえているのに聴いていなかった沢山の音がある事が判ってきます。
上手く聞き分けられれば、何となく不快だったり、なんとも心地よい感覚の、その正体がわかるかもしれません。

また、Ustなどで不慣れなマイクセッティングでは、その場では気付かない紙をめくる音やキーを叩く音が目立つのを感じた事があるかもしれませんが、機械を通す事で無意識にキャンセルしていた音が立ち現れてきます。

いずれも、物理的に響いている音と、私たちが無意識に選択して聴いている音には相当な差がある、という事が背景にあるからでしよう。これは、長い年月を掛けて生命が獲得した能力であり、優先順位に基づいていると感じます。

これは私の私案で根拠があるものではありませんが、しかしこの「無意識の選択」は、意識的に拾って行こうとする積極性とのバランスがあって成り立っているとも思っています。

情報が指数関数的に増え、かつアクセス出来る状況では、わかりやすさも追求されていきます。それは必然ですね。
その「わかりやすく提示された大量の情報」に触れていると、「未知」がない錯覚に陥る事もありそうです。

例えば、初めて旅する町の地図と航空写真とウェブサイトとブログの評判をひとしきりチェックして、行く前から詳しくなってしまう方は多いのではないでしょうか?
それは今では普通の事と言えますが、実際に旅した時に、その知識の中で行動する方と、あえて外して行く方とは分かれそうですね。
どちらが豊かとか楽しいとか、一概には言えないことですが、自分だけの「未知の発見」がある事を私は好んでいます。

この発見が旅の喜びの大きなテーマですが、日常の中で当り前になっている認知にも言えますね。
いつも私が楽しんでいる「町内は旅するように、旅先は住んでいるように歩く」は、本当に発見があってお薦めなのです。

さて、回りくどい言い方をしてしまいましたが、判りやすさの向こう側にある未知を意識すると、日常の景色もがらっと印象が変わるのではないか、というお話です。
これをUIデザイン的に捉えれば、主題と背景を同時に伝えるというテーマになりそうです。

過去記事:聴く技術「サウンドスケープ」2冊
http://dmc.asablo.jp/blog/2010/10/04/

「なんでもする、けんかしない」2010年10月07日 23:59

「なんでもする、けんかはしない」
町内で見つけた落書きです。
ふむ、なるほど。
子供はよく判ってますね。

ここは狭隘道路の擁壁ですが、子供には貴重な遊び場。昔懐かしいケンケン(石けり)も息づいてるようで嬉しくなりました。
dmc.
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