天秤2011年03月29日 23:59

三陸には「ここより下に住むべからず」と書いた石碑があるそうです。
実際に明治の津波の後、村ごと高台に移住した地域もあってそこに住み続けた村は昭和の津波でも被害が少なかった、しかし豊漁につられて水際に戻った村は同じ被害を繰り返したとか。。

私を含めて、社会と言うものは中長期的な視座より短期的な利便性に傾いてしまいます。
三陸の津波の場合でも、明治以降3度起きています。これは1世代にあたる30年より長い時間で社会を考えることがいかに難しいかを語っているように思います。

今回は地震や津波という天災だけでなく、原子力発電所の事故も起きました。通常運転内なら極めてローコストで大量の電気が作れるシステムだそうですが、一度破綻すると膨大で見積不能な負担を強いるものになっています。
これも、私たちに中長期的視座の欠如していることの証明なのでしょうか。

話は飛びますが、中世以降の犯罪者への処罰の歴史の概要が書かれたもの読んだことがあります。
社会は厳罰と寛容の間を揺れ動くのですが、歴史的なトレンドは寛容化だそうです。死刑はいつでも倫理的な面がクローズアップされていますが、社会全体の生産性と言う視点だとまた見方が変わるようですね。
被害者の救済を第一義として考えるべきなのは当然として、それだけだけでなく、「参加する社会」の当事者意識として考えなければ答えが出せないですね。

社会の成熟とは、中長期的視座で帳尻の合う行為に、構成する私たちが組みしていること、という見方が浮かんできます。

中長期的視座で動く、というのは結局理念と行動規範を含むものを持つということです。
そしてそれは「振舞い」となってデザインに現れてしまうでしょう。
私は自身の中長期的視座をもう一度真剣に問わなくてはなりませんね。
dmc.
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