自粛の自粛 ― 2011年03月15日 08:31
出きる事は何だろう、、この問いに即答する事はなかなかできないと思いますし、正解も難しいですね。
それでも今思い当たるのは、、
1)節電と節約
電気だけでなくものも被災地に届いて欲しいと思っています。
2)寄付
原動力です。きちんと届く団体組織を通じてしたいと思います。
3)経済を回す
過度の自粛ムードが広がると、経済全体が落ち込みます。これは絶対に良くないです。地震前より冷え込んでしまうのは絶対に避けたいです。
微力ではありますが、自分の仕事をしっかりと進める事が経済の下支えになる、そのほんの一部となれば幸いと思います。
さあ、働こう!
それでも今思い当たるのは、、
1)節電と節約
電気だけでなくものも被災地に届いて欲しいと思っています。
2)寄付
原動力です。きちんと届く団体組織を通じてしたいと思います。
3)経済を回す
過度の自粛ムードが広がると、経済全体が落ち込みます。これは絶対に良くないです。地震前より冷え込んでしまうのは絶対に避けたいです。
微力ではありますが、自分の仕事をしっかりと進める事が経済の下支えになる、そのほんの一部となれば幸いと思います。
さあ、働こう!
明るい未来 ― 2011年03月16日 23:59
震災の翌日、近所の見回りをさせて頂きました。一人暮らしのご老人や住居のご状況が心配だった方など、幸い人的被害は無かったです。本当にあり難いことです。
そして、いつも思うことではありますが、何方かを気遣い励ますような事をさせて頂くことで、自分自身が元気になりました。
夜回りで有名な水谷先生が、問題を抱えて夜眠れない子供に、
「夜が明けたらゴミだししている老人のゴミをもってあげて。そしてありがとうって言ってもらおう。どんな小さなことでもいいから、だれかの役にたってごらん」
と言っていたのが忘れられません。
「自らを励ます最大の方法は、他人を励ますことである。」
トーマスマンの言葉だそうです。
今沢山の悲しみがすぐそこにあります。それを前にして口先の励ましが何になるだろう、という思いも理解出来ます。
でも励ますことで励まされ、それによって人は元気になって行く、そういう回路を持っていると思います。
それでも言葉にできない時は黙って祈りをささげましょう。
「祈り」とは、手がまったく出せない状況にあっても私たちができる事です。
祈ったことがない、祈ることが恥ずかしいという方もいらっしゃるかもしれませんが、大切な方が重篤な病気になった時を思い浮かべて見て下さい。
治療をドクターに任せた上で、できる世話をして、仕事などしなければならないことをして、そうして心身を使っている中でも「治って欲しい」という気持が溢れませんか?
ふとした時に出てくる「もうだめかもしれない」という心と闘って「絶対治って欲しい」という強い気持が勝っていく、そんなご経験はありませんか?私はこの強い気持が「祈り」だと思っています。
悲観的な視点から楽観的な意志への転換は時にしんどいことですが、だからこそ人に伝搬するはずです。
だから黙って祈ることに意味がある、と信じているのです。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
アランのとても有名な言葉ですね。
「運命への諦観との戦い」
これは私の尊敬するある方の言葉です。
私はずっと祈っています。
明るい未来にするぞ!
そして、いつも思うことではありますが、何方かを気遣い励ますような事をさせて頂くことで、自分自身が元気になりました。
夜回りで有名な水谷先生が、問題を抱えて夜眠れない子供に、
「夜が明けたらゴミだししている老人のゴミをもってあげて。そしてありがとうって言ってもらおう。どんな小さなことでもいいから、だれかの役にたってごらん」
と言っていたのが忘れられません。
「自らを励ます最大の方法は、他人を励ますことである。」
トーマスマンの言葉だそうです。
今沢山の悲しみがすぐそこにあります。それを前にして口先の励ましが何になるだろう、という思いも理解出来ます。
でも励ますことで励まされ、それによって人は元気になって行く、そういう回路を持っていると思います。
それでも言葉にできない時は黙って祈りをささげましょう。
「祈り」とは、手がまったく出せない状況にあっても私たちができる事です。
祈ったことがない、祈ることが恥ずかしいという方もいらっしゃるかもしれませんが、大切な方が重篤な病気になった時を思い浮かべて見て下さい。
治療をドクターに任せた上で、できる世話をして、仕事などしなければならないことをして、そうして心身を使っている中でも「治って欲しい」という気持が溢れませんか?
ふとした時に出てくる「もうだめかもしれない」という心と闘って「絶対治って欲しい」という強い気持が勝っていく、そんなご経験はありませんか?私はこの強い気持が「祈り」だと思っています。
悲観的な視点から楽観的な意志への転換は時にしんどいことですが、だからこそ人に伝搬するはずです。
だから黙って祈ることに意味がある、と信じているのです。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
アランのとても有名な言葉ですね。
「運命への諦観との戦い」
これは私の尊敬するある方の言葉です。
私はずっと祈っています。
明るい未来にするぞ!
次の季節 ― 2011年03月17日 23:59
「世界で一番美しい元素図鑑」 ― 2011年03月18日 23:59
先日魅せられて衝動買いしていた「世界で一番美しい元素図鑑」を昨日はじめて開きました。
「元素コレクター」の視点から、元素ひとつにつき見開き2頁(金やウラン等は4頁)で写真とともに紹介されています。
元素コレクターならではの蘊蓄が、物質への興味を掻き立てます。
例えば、天然で存在する最も大きな元素はウランです。ウランはその8年前に発見された天王星(ウラヌス)から名付けられました。
純ウランには金色の輝きがあり、アメリカでは合法的に所有することが出来ます。
また放射能はウランの発見(1789年)から106年かかりました。
含有量0.72%のウラン235の分離には技術と莫大なコストがかかりること、プルトニウムはそれに比べて容易に作り出すことが出来ること。。
知らない事ばかりですが、ついつい引き込まれてしまいました。
テクノロジーが社会の中で理解されること、、困難ではあっても重要な意味があると、改めて気付かされます。
「元素コレクター」の視点から、元素ひとつにつき見開き2頁(金やウラン等は4頁)で写真とともに紹介されています。
元素コレクターならではの蘊蓄が、物質への興味を掻き立てます。
例えば、天然で存在する最も大きな元素はウランです。ウランはその8年前に発見された天王星(ウラヌス)から名付けられました。
純ウランには金色の輝きがあり、アメリカでは合法的に所有することが出来ます。
また放射能はウランの発見(1789年)から106年かかりました。
含有量0.72%のウラン235の分離には技術と莫大なコストがかかりること、プルトニウムはそれに比べて容易に作り出すことが出来ること。。
知らない事ばかりですが、ついつい引き込まれてしまいました。
テクノロジーが社会の中で理解されること、、困難ではあっても重要な意味があると、改めて気付かされます。
山に月 ― 2011年03月22日 23:59
私の住む横浜は、地震の被害は少ない方です。私の回りでも多少物が壊れましたが冷静に見ればほとんど問題ありません。
それでも沢山の影響があり、日常のざらつきは日を追う毎に増しているようです。
我家では真っ先に子供たちがおかしくなりました。
そこで、体を動かして新鮮な空気を吸おうと思い高尾山に登ってきました。
山頂から見えた山々。奥にはまっ白な富士山も見えています。
(肉眼ではもっと大きく感じました。)
山と森の力を改めて感じますね。
五感がリフレッシュされ子供たちにも笑顔が戻りました。
その夜は「スーパームーン」が煌々と照らす公園を散歩。
いつもの「柳宗理歩道橋」
鎮守の森は祠を守るためではなく、祠を置く事により実は森を切らせないためだった、という説があるそうです。今改めて身近に森があることの意味を思っています。
「馬よ、生き延びろ、今に草が伸びるから」再掲 ― 2011年03月23日 23:59
Campa, cavallo, che l'erba cresce.
馬よ、生き延びろ、今に草が伸びるから
イタリアのことわざです。
私たちにとって開国と敗戦に次ぐ時代の変換点である、という指摘をネット上でいくつか見ました。
私自身、どのように変わるのか全く想像が付きませんが、期待感を差し引いても「変わる」感触があります。
それが根本的な変化かどうかは判りません。しかし、以前のような環境状況に戻らないことは確かで、であれば私たちに内在する未顕の才能が刺激されることは間違いありません。
どんな草が伸びるのか、いや伸ばすのか。。
「疾風に勁草を知る」と言う言葉がありますが、私たちの地平に強い草(勁草)を繁らすために、今、目の前のデザインに全てを注ぎたいと思います。
過去記事:馬よ、生き延びろ
http://dmc.asablo.jp/blog/2009/03/06/
馬よ、生き延びろ、今に草が伸びるから
イタリアのことわざです。
私たちにとって開国と敗戦に次ぐ時代の変換点である、という指摘をネット上でいくつか見ました。
私自身、どのように変わるのか全く想像が付きませんが、期待感を差し引いても「変わる」感触があります。
それが根本的な変化かどうかは判りません。しかし、以前のような環境状況に戻らないことは確かで、であれば私たちに内在する未顕の才能が刺激されることは間違いありません。
どんな草が伸びるのか、いや伸ばすのか。。
「疾風に勁草を知る」と言う言葉がありますが、私たちの地平に強い草(勁草)を繁らすために、今、目の前のデザインに全てを注ぎたいと思います。
過去記事:馬よ、生き延びろ
http://dmc.asablo.jp/blog/2009/03/06/
ロールモデル ― 2011年03月24日 23:59
「慌てたところを見て一気に引いた」
「意外に頼れるヤツで見直した」
「誰が本当に頑張っている人か判った」
・・・
ツイッターやネットでは、身近なの方の振舞いによって、その方の評価が変わったとおっしゃる方を沢山拝見しました。
「どう振舞ったかがその人である」というのは、厳しくも客観的で信じうる評価になるのでしょうね。
私は、この震災で、身近な大人の中に沢山の尊敬すべき人物が現れているだろうと思います。
その人物はこれまでの価値観では決して立派ではないかもしれません。また逆にとても立派な方かもしれません。
その一方で、輝きを失う人もいなくはないでしょう。
それは、その姿を斜め後ろから見ている世代にとっては特に、沢山の気付きをもたらして下さるだろうと思います。
さて、ふり返って我が身はいかがなものか。。
いつものように慌てず騒がず全力疾走、これしかないですね。
「意外に頼れるヤツで見直した」
「誰が本当に頑張っている人か判った」
・・・
ツイッターやネットでは、身近なの方の振舞いによって、その方の評価が変わったとおっしゃる方を沢山拝見しました。
「どう振舞ったかがその人である」というのは、厳しくも客観的で信じうる評価になるのでしょうね。
私は、この震災で、身近な大人の中に沢山の尊敬すべき人物が現れているだろうと思います。
その人物はこれまでの価値観では決して立派ではないかもしれません。また逆にとても立派な方かもしれません。
その一方で、輝きを失う人もいなくはないでしょう。
それは、その姿を斜め後ろから見ている世代にとっては特に、沢山の気付きをもたらして下さるだろうと思います。
さて、ふり返って我が身はいかがなものか。。
いつものように慌てず騒がず全力疾走、これしかないですね。
曲がった先端の先に ― 2011年03月25日 19:09
今日、東京タワーの曲がった先端をこの目で見ました。
東京タワーが象徴していたものがあります。
戦後の経済成長を見届け、世界に誇れる日本の立ち姿を映し出し、首都に普く情報を送り続けていた東京タワー。
そして、その役目をスカイツリーに受渡すと言う年に、かつて全ての羨望を集めた先端が曲がってしまった、、。
様々な思いが巡りました。
傷ついたものを直したり、壊れたものを新しくしたりしても、決して元に戻らないものが沢山あります。ですから、私は簡単に「復興」という言葉を使うことができません。
それでも沢山の「建設」が必要なことは明白です。それは失ったものを埋めるだけではなく、これからの時代に向けて作られるはずですね。
それは(当然のことですが)二週間前とは全く異なる何かを内包するでしょう。決して戻れない世界へと繋がる何か。
その「何か」に、自分の力を注ぎたい。そのためにはどうしたらよいのか。。
決して折れたのではない、少し曲がったこの先端は、このまま斜め上を指していてもらいたい、、そんな気持でいます。
(勿論、安全上の課題をクリアしてですけれど)
東京タワーが象徴していたものがあります。
戦後の経済成長を見届け、世界に誇れる日本の立ち姿を映し出し、首都に普く情報を送り続けていた東京タワー。
そして、その役目をスカイツリーに受渡すと言う年に、かつて全ての羨望を集めた先端が曲がってしまった、、。
様々な思いが巡りました。
傷ついたものを直したり、壊れたものを新しくしたりしても、決して元に戻らないものが沢山あります。ですから、私は簡単に「復興」という言葉を使うことができません。
それでも沢山の「建設」が必要なことは明白です。それは失ったものを埋めるだけではなく、これからの時代に向けて作られるはずですね。
それは(当然のことですが)二週間前とは全く異なる何かを内包するでしょう。決して戻れない世界へと繋がる何か。
その「何か」に、自分の力を注ぎたい。そのためにはどうしたらよいのか。。
決して折れたのではない、少し曲がったこの先端は、このまま斜め上を指していてもらいたい、、そんな気持でいます。
(勿論、安全上の課題をクリアしてですけれど)
方向転換 ― 2011年03月28日 23:12
東京を含めた東日本市場向けのデザインが大きく舵を切ります。
これまでの、バブル前後から揺れながらもひとつのなだらかな傾向があった流れが、大きなコンテクストによって書替えられそうです。
特に大きく変わりそうなものは、、
かっこよさ
かしこさ
ふつう
これらがまず思い当たります。
自身を含めて「どのように振舞ったか」「それをどう感じたか」の経験が、かっこよさやかしこさの評価を大きく変えるでしょう。
また、「平時」「緊急時」という言葉が多く見られる様になりましたが、これは「今は平時ではない」という共通認識の現れで、この認識は日常のベースをシフトさせるでしょうね。
それから、「無駄使いしたくないけど経済は回したい」という気持が、消費への態度を変えていくでしょう。
これは「高級」「高品質」のあり方を問うように思います。
もちろん、揺り戻しも少なからずあると思いますし、私の狭い視野では見えていないことの方が多いと思いますが、大きな方向転換が迫られるのはデザインに留まらないでしょうね。
これまでの、バブル前後から揺れながらもひとつのなだらかな傾向があった流れが、大きなコンテクストによって書替えられそうです。
特に大きく変わりそうなものは、、
かっこよさ
かしこさ
ふつう
これらがまず思い当たります。
自身を含めて「どのように振舞ったか」「それをどう感じたか」の経験が、かっこよさやかしこさの評価を大きく変えるでしょう。
また、「平時」「緊急時」という言葉が多く見られる様になりましたが、これは「今は平時ではない」という共通認識の現れで、この認識は日常のベースをシフトさせるでしょうね。
それから、「無駄使いしたくないけど経済は回したい」という気持が、消費への態度を変えていくでしょう。
これは「高級」「高品質」のあり方を問うように思います。
もちろん、揺り戻しも少なからずあると思いますし、私の狭い視野では見えていないことの方が多いと思いますが、大きな方向転換が迫られるのはデザインに留まらないでしょうね。
天秤 ― 2011年03月29日 23:59
三陸には「ここより下に住むべからず」と書いた石碑があるそうです。
実際に明治の津波の後、村ごと高台に移住した地域もあってそこに住み続けた村は昭和の津波でも被害が少なかった、しかし豊漁につられて水際に戻った村は同じ被害を繰り返したとか。。
私を含めて、社会と言うものは中長期的な視座より短期的な利便性に傾いてしまいます。
三陸の津波の場合でも、明治以降3度起きています。これは1世代にあたる30年より長い時間で社会を考えることがいかに難しいかを語っているように思います。
今回は地震や津波という天災だけでなく、原子力発電所の事故も起きました。通常運転内なら極めてローコストで大量の電気が作れるシステムだそうですが、一度破綻すると膨大で見積不能な負担を強いるものになっています。
これも、私たちに中長期的視座の欠如していることの証明なのでしょうか。
話は飛びますが、中世以降の犯罪者への処罰の歴史の概要が書かれたもの読んだことがあります。
社会は厳罰と寛容の間を揺れ動くのですが、歴史的なトレンドは寛容化だそうです。死刑はいつでも倫理的な面がクローズアップされていますが、社会全体の生産性と言う視点だとまた見方が変わるようですね。
被害者の救済を第一義として考えるべきなのは当然として、それだけだけでなく、「参加する社会」の当事者意識として考えなければ答えが出せないですね。
社会の成熟とは、中長期的視座で帳尻の合う行為に、構成する私たちが組みしていること、という見方が浮かんできます。
中長期的視座で動く、というのは結局理念と行動規範を含むものを持つということです。
そしてそれは「振舞い」となってデザインに現れてしまうでしょう。
私は自身の中長期的視座をもう一度真剣に問わなくてはなりませんね。
実際に明治の津波の後、村ごと高台に移住した地域もあってそこに住み続けた村は昭和の津波でも被害が少なかった、しかし豊漁につられて水際に戻った村は同じ被害を繰り返したとか。。
私を含めて、社会と言うものは中長期的な視座より短期的な利便性に傾いてしまいます。
三陸の津波の場合でも、明治以降3度起きています。これは1世代にあたる30年より長い時間で社会を考えることがいかに難しいかを語っているように思います。
今回は地震や津波という天災だけでなく、原子力発電所の事故も起きました。通常運転内なら極めてローコストで大量の電気が作れるシステムだそうですが、一度破綻すると膨大で見積不能な負担を強いるものになっています。
これも、私たちに中長期的視座の欠如していることの証明なのでしょうか。
話は飛びますが、中世以降の犯罪者への処罰の歴史の概要が書かれたもの読んだことがあります。
社会は厳罰と寛容の間を揺れ動くのですが、歴史的なトレンドは寛容化だそうです。死刑はいつでも倫理的な面がクローズアップされていますが、社会全体の生産性と言う視点だとまた見方が変わるようですね。
被害者の救済を第一義として考えるべきなのは当然として、それだけだけでなく、「参加する社会」の当事者意識として考えなければ答えが出せないですね。
社会の成熟とは、中長期的視座で帳尻の合う行為に、構成する私たちが組みしていること、という見方が浮かんできます。
中長期的視座で動く、というのは結局理念と行動規範を含むものを持つということです。
そしてそれは「振舞い」となってデザインに現れてしまうでしょう。
私は自身の中長期的視座をもう一度真剣に問わなくてはなりませんね。
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