「普通」を作ろう2011年10月20日 23:05

スタジオ移転に伴いまして、そのまね事をする機会が有りましたが、「断捨離」がブームと言われて久しいですね。
ブームの背景は色々な事が語られておりますが、断捨離を通して残された品物たちを眺め、こんなことを思いました。

まず、最近伺ったある方のお話をご紹介します。
断捨離の際、どうしても必用な手に馴染んだものを残し、憧れて買ったのはいいものの結局ライフスタイルにあわなかったり、もったいなくて使わずにしまい込んでいた高級品高額品を沢山捨てることに。そして残ったモノを見渡すと、間に合わせで買ったりなんとも安物たちばかり。自分に正直にした結果を目の当たりにして「自分はいつも卑下してきた、そういう人間なんだ」と気付いたそうです。
その後、その方がどうされたかは知りませんが、断捨離をしようと思ったということは、現状を変えたいと言う潜在的なものをお持ちだったはずですから、意識と行動を変える切掛となさったかも知れません。

今度は私の話です。
古いレコードがありまして、それはちょっとレアなもので、そのレコードをCD化したものがとても高く売買されていたこともあり、それほど思い入れがあったものでもないのですが処分出来ずにいました。今回それを思い切って売ってしまおうと考え見積もったところ、予想に反して小額で少なからず驚いてしまいました。
「所有効果」という心理があるそうです。あるモノに対して、それを所有している場合、所有していない場合よりも高い価値を(金銭的には3倍の価値を付けるという調査結果も)というものだそうです。
知らず知らずのうちにこういう心理が働いていたのは言うまでもありませんね。
その他の日用品は、ありあわせのものを捨て、いいものを残すことを念頭に置きましたが、ありあわせのものでも使い慣れたものは案外愛着が出てしまうものですね。
所有効果も愛着も、使用者とモノの間で成り立って行く一回性の大切な時間を含んでいるはずです。だとしたら、その貴重な時間を共有するパートナー(=モノ)がありあわせというのはどういう意味を持つでしょうか。。

いま、回りを見回すと安ければいい、というものが溢れています。
上の方は極端な例かも知れませんが、安さ、安易さといったイージーさは、脆弱な価値観など易々と乗り越えて生活の中に浸透しているのだ、、そう再認識しました。

私自身も加担しているその「イージー」 な消費が、日本のデザインを一部にせよ殺してしまったのではないか、、一見、日本のデザインは目立っているようでも、それは地盤沈下によって陰影が増しただけなのではないか、、そんな思いが拭えません。

普通の人が普通に手に入るものが豊かであり、愛用者の人生に欠かせないもの。そういう普通を作り出すのがデザインの仕事であったはずで、そのことが再び鮮烈に思い出されるのです。

何度か紹介させて頂いている大好きなジョルジオ・アルマーニ氏の言葉を再び確認したいと思います。

「デザイナーの仕事はサービスを提供することであり、今まで誰もやっていないことをやってみせることじゃない。誰もやっていないとしたら、やる必要がなかったからだ。そんなものを作っても、デザイナーの自己顕示欲を満足させるだけで、役には立たない。
デザインは生活のためのものだ。この点だけは絶対に譲るつもりはない。」
(ニューヨークタイムスのインタビューより)

「普通」を作ろう。

これがこれからの私たちの、大袈裟に言えば使命なのかもしれない、、そんなことを考えています。

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