「子供に戻る」2013年09月06日 23:13

日本の統計では7割の人が75歳を過ぎると自立度が少しづつ下りながら晩年を過ごします。
自立度の下り方は各個人によって様々だと思いますが、幾つかのパターンには整理出来る事でしょう。

その中で、私自身が着目しているひとつは「認知」の部分の変遷です。2025年を念頭に置くと、どの様な作法をその機器に採用すべきかという課題に仮説が見いだせるのではないか、という思いがあります。

ざっくりと言いますと、一般的に15歳から25歳までの10年を核とした青春期に触れた文化、文明、それを支える技術とその作法は、一生を通じて失われにくいよう(エビデンスなし)なので、そこは一つの基準となるでしょう。

しかし、認知が失われて行くと、10代前半に獲得したであろう作法も失ってしまうようなのです。

例1:儀式(葬式)の進行がどの宗派か判らない修道女。
例2:ライターで線香に火を着ける際、火の先端ではなく根本にあててしまう元喫煙者。

1の例では、儀式である事は判り、2では火をつける事はできますので、「細部」や「コツ」を失っているようにも見えます。概要が判るのに細部が判らないというのはそれ自体は問題は少なそうですが、そこに主体者(行為を行う者)として関わると、混乱してしまいます。小さな混乱は大きな混乱を呼び、事故のリスクを上げてしまいます。

認知症が進んだ個人に何か機器の操作をさせることはない、とお思いの方も多いと思いますが、例えばトイレで用をたす、という身近な行為でも手順を分解すると複雑なのです。トイレは在宅医療の自動化には重要な場所で、そこに設置される機器に対してどのように認知し、関わる場合はどうすべきかは、絶対にないがしろには出来ない課題です。

これらは私の見識よりも遥かに医療面からの研究が進んでいると思います。しかしながら、デザインへの応用という意味ではこれからだと思います。

そこで、一つの着目として、「老い」が「成長」の逆行であるならば、老いを「子供に戻る過程」と捉えるというのがありそうです。
ちょっと乱暴なのですが、この見方だと参考になる事例も多いので、「補助線の一つ」として意識して見ようと思います。
dmc.
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