ベンチを置く ― 2024年07月08日 16:15
排除アートが気になる皆さまこんにちは
前回、福岡で設置された浮浪者を排除するベンチが設置されているが、その排除の意図を感じず、逆にユニバーサルの文脈で歓迎する向きもあり意見が割れている、というニュースをご紹介しました。
デザイン的な視点で、形が人に行為を促すように機能する(アフォーダンスがある)あり方として、「悪意*」をまるっと感じない人が相当数いらっしゃる事に驚いたのでした。(*悪意=排除の意図)
一般に、人は悪意の方に敏感です。なので、何故それを見落とす事が出来るのか、ここを深堀することは意義がありそうです。
仮説1:悪意は感じるが、自分に向けられた悪意ではないので過小評価している説。
仮説2:悪意は感じるが、そこに共感しているので内心は支援している説。
仮説3:悪意は感じるが、表面上の善意(手すりに擬態)が悪意を押しとどめている説。
しかしそもそも、排除の意図を感じないのが普通なのかもしれません。
上のような邪推は、当たっている方がいたとしてもそれほど多くはないでしょう。
むしろ、「ベンチは座るもので寝たりしない」という了解が共有されて、それはとても強固なのではないか、と思います。
これ、無意識に「自分は浮浪者ではないし今後も浮浪者にはならない」「自分は病人ではないし今後病人にはならない」「自分は赤ん坊や老人ではないし今後それらの世話もしない」という自認があるから、、と見えてしまいます。これはちょっと気が重い話ですね。。
福岡では意見が割れている、ということなので今後の推移に注目したいと思います。
ところで話が飛びますが、20年ほど前のことです。自宅の前にベンチを設置したことがあります。最初は母が近所の知人と座って過ごすためでしたけれど、母がいなくなったあともドラマが沢山ありました。
徘徊老人も行倒れも不審者もそのベンチに座り、横になり、一時を過ごし、家族を待ち、救急車を呼び、去っていきました。
仕切りのあるベンチ、私にはブロイラーのケージのように見えてしまうベンチ。そこにはどんなドラマがあるのでしょう。
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