知識の生々しさ ― 2024年09月02日 10:41
みなさまこんにちは^^
AIに物理世界を理解させて機械に搭載して行く未来が来そう、という話の続きです。
この話題の前提になっている「コンピューター内の情報はそもそもリアルじゃないから人間のような物理世界を生きる知能には至れないんじゃないか」という視点、聞いたことあります。「記号接地問題」ってやつですね。
先日の記事ではそこをさくっと超えてくる前提になっていました。
私たちが、体験を通してえる知識には、手触りや匂いや温度など五感がフルに関わってくる生々しいものが沢山あります。その衝撃から人生を決定するようなこともあります。
これは体験が「脳」だけではないことを示唆しているように思います。
実際の脳は末端神経からのフィードバックがないと活動が上手くできないことが分かっているそうです。つまり、神経系だけに注目しても、体全体が揃う必要がある、と。
一方で、切断した腕の痛みの話があります。
無いはずの腕が痛い、それをある方の腕を鏡で映して治療すると治るという話、聞いたことございませんか?無い方の腕を治すという、脳をだますアプローチの実効性、こちらも興味深いです。
これは、身体がなくても「あると思えば」身体性を獲得するかもしれない、、という。飛躍かもですが。この飛躍がハンドリングで来たら、AIの身体性は飛躍的に揚がるのでは、、そんなことを思いました。
反応パターンと生物感 ― 2024年09月04日 18:06
みなさまこんにちは^^
ここに搭載されていたAIは、入力と出力の反応パターンを記述したものだと、当時の記事で読みました。(詳しい方がいらしたら間違いご指摘くださいm(__)m)
この「反応パターンのみで動く」というのは、脳で考えずに脊髄で反射するような神経回路にたとえられ、それを揶揄して「コックローチAI」などと書かれたりもしていました。
今のAI技術の主流の機械学習も、理論思考ではなく、入力した膨大なデータから確率の高い出力を出しているものだそうなので、「めちゃくちゃ精度の高い反応パターンの集合」と捉えると、AIBOの持っていた「生命感」は、この「反応パターン」なのかな、、と思います。
ちなみに、UIデザインではこの「反応パターン」はメンタルモデルの構築のためにはとても大事なものです。ここが良く出来ていると気持ちよさを感じたり愛着が沸くのですね。
良く考えますと、シンプルな反応パターンにも生命性を見てしまう「人の認知」の面白さですね。
MICHI-KUSA Oval ミチクサオーバル、発売開始しました! ― 2024年09月06日 10:28
MICHI-KUSA Oval ミチクサオーバル ― 2024年09月09日 07:07
知の手触り ― 2024年09月11日 07:58
みさなまさんにちは^^
先日はAIが身体性を獲得する未来、、そんなことをイメージしてみて、なんとなく絵面も浮かんだりもしました。しかし、私の中の言語と既存イメージの組み合わせ以上ではない範囲のことだとも思いました。
それは「手触り」が無いからなんですね。私にとって「空想」であっても、そこに手触りがあるかどうかが大事です。
読むだけの学習と書く学習とでは、書いた方が記憶の定着率が高いそうです。身体の運動を伴う行為の方が脳に定着するという説ですね。「マルチモーダル」という言葉もあります。
大切にしながら何度も開いた専門書の厚い頁、辞書の薄い紙、紙一枚残して切るスチレンボード、良く研いだのみで削るシナノキ、発泡材が削れていくやすりの深さ、シンナーが飛ぶ前に重ねるマーカーの芯、ホワイトボードを消しとるイレイサーの手応え、、そんなものがデザインを学んだ手応えとして残っています。
UIでもそのアナログな手法は使いますが、最後はコンピューターの中で作ります。この時、プログラム的なこともする訳ですが、その途中の手応えのなさが私には恐怖で(笑
この恐怖は、学んで行けばなくなって行くのは知っていますが(実際かなりなくなりました)、デザイナーとして忘れてはいけないことなのです。UIに限らずデザインにとって、この手応えの断絶は、使う人を拒絶する要素になってしまうからです。
加速度的にますます知的になって行く機械たち、それらとの橋渡しはデザイナーの大切仕事なのです。
RP ラピッドプロトタイピング ― 2024年09月13日 17:30
みなさまこんにちは^^
先日の「知の手触り」の続きです。
「手触り」には、文字通りの触覚だけを指す場合と、匂いや印影などを連想させる場合があります。韻というものかも、です。
この「連想」の力が凄くてですね、「絵」では想起することの出来なかった知見がどんどん出てくるんです。ですから、アイデアがよりよくなったり、ゴールがより鮮明になったり。デザインにおいては「触って感じることが出来るものにする」という行程を繰り返すことでどんどん良いものになって行きます。
この試作を素早く行って良くして行くところを「RP ラピッドプロトタイピング」として見聞きされた方は多いのではないでしょうか。素早い試作、率直で良いネーミングです。
ちなみに3Dプリンターの大きな価値の一つにこのRP、試作を繰り返しやすいところにあります。
「写メ」以来、写真を撮って見せあうことが爆発的に増えました。その結果、きれいな写真(映える写真、エモい写真)のあり方が共有され、写メ以前よりはるかに素敵な写真が溢れました。これは「撮って、見る」の回数が飛躍的に増加したからだそうです。
同じことが3Dプリンターで起きるか、、と期待したほど一般化はしませんでしたが、3Dプリントでオリジナルブランドを立ち上げた先行者は出てきています。
デザインの現場でのお話。
コンピューター化が進んでいまして、それはとても良いことなのですが、RPの手段がかえって面倒くさくなってるという話もごく一部にあるようです。新聞紙や段ボールでがしがし作って、、というのがスマートじゃないからでしょうかね。
私は段ボール工作とブリコラージュ*以上に速いRPをまだ見つけられていませんので、これからもがしがし作って参ります!
*)ありものを組み合わせて作ること
交換したい生き物 ― 2024年09月16日 07:31
みなさまこんにちは^^
突然ですが、「インセスト・タブー」って聞いたことあります?
日本語では「近親相姦の禁止(禁忌)」のことですって。先日はじめて知りました。
現代新書のサイトで奥野克巳氏が自著「はじめての人類学」を紹介する記事で知りました。
詳しくは原著「はじめての人類学」をご覧頂くとしまして、、
1:インセスト・タブーが単なる倫理的な規則ではなく、人類社会が発展していく上で不可欠な要素である。女性の交換という仕組みを通して、社会は互酬性、社会環境の拡大、そして平和的な秩序を維持することができたといえる。レヴィ=ストロースの理論。
2: 交換は利益や相手への配慮のためではなく、「交換する」という行為自体が社会の秩序を形成する要素である。言葉が持つ厳密なルールのように、交換にも「構造」が存在し、それが人間社会の基礎を形成している。
(Google AI Studioによる要約をさらに抜粋)
(Google AI Studioによる要約をさらに抜粋)
人は交換する生き物である。交換したいから「交換できる状態」を作り出すためにインセスト・タブーが生まれた。交換することで社会が発展した、と。ほお。
私たちは交換したい生き物なんだ、ということですね。
そしてそれは「言葉」と同じなんだ、というのも興味深いです。
余談ですが(この記事内には言及されていませんが)古代の物品がものすごいスピードで移動している事象を説明するのに「人は交換する生き物」という言い方ほどぴったりする言葉はないなと思いました。
ちなみに、私が「交換」という行為に惹かれるのは、それがUIデザイン的だからですね。それはまた後日お話しさせて頂ければ。
なお、上記記事に紹介される学説では、女性が集団の所有物として交換されること、それがあたかも必然であることのようにかかれていますので、倫理的な違和感を感じてしまうかもしれませんが、その違和感を感じること自体が「獲得してきた倫理」を見るときの助けになるでしょう。またまた余談。
「はじめての人類学」早速ポチりました。楽しみ。
ビジョンの共有と交換 ― 2024年09月18日 10:13
みなさまこんにちは^^
「人は交換したい生き物」という認知を得てから、色々と腑に落ちることがありまして。そのうちのふたつをご紹介します。
ひとつはなぜ「利他」があるのか。
倫理や宗教が利他にたどり着くのか。利他的な人ほど幸福度が高いのは何故か。この疑問に対する「人は与えたいものだから」「そして与えると同時に受領しているから」という回答がありまして、確かにそうだと思いますけれど、これを一言で「交換したい」と言い換えるのはとてもしっくりきます。
そして「交換によって価値が増す」という概念も肌感覚としての連続性を感じます。貨幣が生まれてくる流れも浮かんできます。
もうひとつ。
そもそもUIデザインは、人が交換したいと考えないと成立しないものだ、ということ。
人とモノのインターフェイスでは、モノの姿が人に行為を促し、人はその行為を行い、モノはそのフィードバックを人に返し、人はそのフィードバックから次の行為にうつる・・。アフォーダンスとかメンタルモデルとかで説明されるUIのミクロの仕組みです。
この「人を促す形(アフォーダンスがある)」とは、例えば椅子は座る形、ボタンは押す形、ノブは回す形をしている、と説明されます。そしてこの形の意味は既に「メンタルモデル」として持っている、もしくは過去の経験から捻出される、と説明されます。この内的な意味群を獲得する経験は、乳幼児の観察によっていくつも見いだされています。
(言語の獲得については今井むつみ秋田喜美共著「言語の本質」が面白いです。)
で、この意味を獲得して行くことがまさに「交換」なんです。自分がした行為そのもの、その軌跡(地面に残る指先の跡とか)、発した音、それらのものと、その結果が結びつくこと。これを「交換」というメタファーで捉えられるんです。
・・・ちょっと分かりにくい話かも。私が興奮している理由が今一つ書けていない気がします。すみません。。
「交換」を「ギブ&テイク」と言い換えたらどうでしょう。人が何かを行うと、そこに情報のギブ&テイクが行われている。ギブとテイクが同時に起きている。この「同時性」が私にはツボなのでした。
続きはまた。
UIは「意味世界」と「物理世界」のインターフェイスである ― 2024年09月20日 18:06
みなさまこんにちは^^
UIが「人は交換したい生き物」という特性があるから成立する、というお話をしています。
「交換」に着目していますが、交換と同時に大切なのが「共有」です。言語が情報交換であると同時に、情報の共有であることは理解しやすいです。
小さな子供がぬいぐるみを指して「この子は赤ちゃんね」と一言いうだけで、その場の集団はそのシチュエーションを共有し、一つの世界をつくって行きます。これって凄いことなんですよね。
カラスは知能の高い生物として知られていて、単独では8歳程度の子供より頭が良いそうですが、2人で椅子を動かすような共同作業が出来ません。また、集団で狩りをする動物は共同作業をしますが、特定の学習期間に獲得しないと出来ないまま一生を過ごすそうです。ましてや、おままごとのようなごっこ遊びは出来ません。(動物は出来なくて人間だけが出来る、というものは本当はまだ観察されていないだけ、ということも多いので、今後変わる可能性がありますが)
ごっこ遊びに見られる「イメージの共有」が、人を人足らしめたと考えるのが現在の主流です。イメージは、目的、役割だけに留まらず、世界観、価値観、思想、倫理、宗教に及びます。これを仮に「意味世界」とまとめますと、人はまさにこの「意味世界を交換、共有したい生き物だ」といえるでしょう。
さて、UIは操作性に関わるところが主ですけれど、物理世界の理屈だけでは説明が出来ないことがあります。
例えば、ちょっと昔の話ですがウォークマンとiPodを比較しましょう。
ウォークマンはボタンが複数ありました。その方が使いやすく、理にかなっていたのです。そしてボタンは多い方が「高機能で値段が高い」ものでした。
一方iPodは特徴的なホイールUIだけで全ての操作を行いました。物理的には非効率な構造でしたが、メニュー構造を理解しやすく「スマート」に見えました。これは歓迎され、その後のUIに多大な影響を与えます。
UIデザインの現場において、iPodのスマートさがウォークマンを古くさく見えるものにした、という事実はちょっとした衝撃でした。iPodの意味世界がウォークマンの意味世界より「素晴らしいもの」として歓迎されたからです。これは思想戦だったのだ、とあらためて思い出されます。
「UIは『意味世界』と『物理世界』のインターフェイスである」
このことを意識する機会は少ないかもしれませんが、絶対に忘れてはならない視点です。
うーん、やっぱり倫理にまで行きますね、今後は。
意味世界と物理世界 穢れの話 ― 2024年09月23日 10:48
みなさまこんにちは^^
「UIは『意味世界』と『物理世界』のインターフェイスである」というお話の続きです。
先のお話では、ミュージックプレイヤーの操作系が、ウォークマンの多ボタンの効率的な使いやすさから、iPodの整合性のある統合的な使いやすさへとシフトした経緯を例にしました。
今日は「意味世界」と「物理世界」が私たちの日常の中で混ざり合っている例を、と思いまして、「穢れ(けがれ)」のお話を。
「けがれ」と打ちますと変換候補に「汚れ」がでてきます。「汚れ」は一般的に「よごれ」と読みますけれど、文字としては同類になっています。よごれ=けがれ、という事ですね。でも私たちは結構「汚れ(よごれ)」と「穢れ(けがれ)」を感覚的に区別しているんです。
たとえば、食後の食器は「汚れ(よごれ)」ていますが、きれいに洗えば再利用出来ます。当たり前ですよね。でも、その食器でドブ掃除をしたらいかがですか?きれいに洗って熱湯消毒したとしても、食器として使うのはかなり嫌ですよね。この感覚は「穢れ(けがれ)」です。
私たちは「汚れ(よごれ)」は落ちていても「穢れ(けがれ)」たものはいやなんですね。
「汚れ(よごれ)」は物理世界の話で収まりますが、「穢れ(けがれ)」は意味世界のものです。
そもそも、食事中の皿の中は「食べ物」そのものですが、食べ終わってシンクに下げられるとその食べ物の残りは「汚れ(よごれ)」に変わります。この汚れをすぐに洗えばお皿はきれいですが、ずっと放っておくと「きたないお皿」となり、洗っても「穢れ(けがれ)」をまとうようになります。
また、どこからが「汚れ(よごれ)」で、どこからが「穢れ(けがれ)」なのかは、人によって差があるでしょう。意味世界のものなのですから当然です。
余談ですが、「穢れ(けがれ)」は衛生観念の側面を持ちます。死人が出た後に人に会わない「忌」や、治水上触ってはいけない土地に建てる「祠」などのように、世代を超えて蓄積された経験が感性として継承されたものでしょう。
このように、物理的な現象に意味を汲み取ってしまうのが私たちの性(さが)、普通の感覚です。
UIはこの「物理的な現象に意味が宿る」ということに敏感でなくてはいけません。ここがデザインのしどころであり、面白いところでもあります。
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