「天地明察」 ― 2013年05月10日 09:24
今更といわれそうですが、沖方丁著「天地明察」を読了していましたのでご紹介です。
今は途絶えた碁「安井家」の二世算哲として御城碁(おしろご:将軍の前で碁を披露する)を務めながら、算術と暦の研究家として観測と改暦を一生の仕事とした渋川春海の物語です。
本人は弱気ながら周囲の期待と庇護を通して成就するさまは、いかにも現代的な人物像として受け入れやすそうです。もとより史実を基にしたフィクションですので、そのような脚色は当然でしょうね。それが飄々とした雰囲気をつくり親しみやすく読みやすい印象になっています。
しかし封建制度を確立して行く時世にあって、「天文方」という新しい世襲職を将軍に作らせてしまうのは、運や身分を存分に用いたとしても凄いお方だったのでしょうね。面白かったです。
ところで今回はkindleを枕元に置き、寝る前に数頁を読み進めるという読書でした。手元灯だけでは不安な画面コントラストも、文字サイズとフロントライトの調整で補えましたので、読書の邪魔にはなりませんでした。
(もちろん、改善の要望は沢山感じておりますが、それはまた別の機会に。)
今は途絶えた碁「安井家」の二世算哲として御城碁(おしろご:将軍の前で碁を披露する)を務めながら、算術と暦の研究家として観測と改暦を一生の仕事とした渋川春海の物語です。
本人は弱気ながら周囲の期待と庇護を通して成就するさまは、いかにも現代的な人物像として受け入れやすそうです。もとより史実を基にしたフィクションですので、そのような脚色は当然でしょうね。それが飄々とした雰囲気をつくり親しみやすく読みやすい印象になっています。
しかし封建制度を確立して行く時世にあって、「天文方」という新しい世襲職を将軍に作らせてしまうのは、運や身分を存分に用いたとしても凄いお方だったのでしょうね。面白かったです。
ところで今回はkindleを枕元に置き、寝る前に数頁を読み進めるという読書でした。手元灯だけでは不安な画面コントラストも、文字サイズとフロントライトの調整で補えましたので、読書の邪魔にはなりませんでした。
(もちろん、改善の要望は沢山感じておりますが、それはまた別の機会に。)
知性のありか 「植物はそこまで知っている」 ― 2013年05月08日 23:40
ダニエル・チャモヴィッツ著「植物はそこまで知っている」を読みました。
人間の五感と対比させながら、植物の「感覚」を最新の科学的知見に基づいて説いています。語り口は判りやすくありながら慎重で、安易な擬人化がもたらす誤解を丁寧に避けているように感じます。
私も耳にした事がありますが、かつて「植物も人と同じように会話をし、聴き、質の良い音楽を求めている」という話しが流布された時期があります。この本はそのような擬人化された植物の感覚をきっぱりと否定しながら、あえて人間の五感を対比させたのは、「感覚」を理解するには私たちの経験を基にするのがよいということなのでしょうね。
例えば「植物は見ている」の章では、植物には「目」と「脳」がないので、私たちのように網膜で結像したものを中枢神経で処理をすることはないけれど、私たちの目や身体の中にある「光受容体」は持っていて、そこから様々な外界の情報を得て活用している事が示されます。
また、青い光を受容する「クリプトクロム」は植物にも人間にもあり、ともに体内時計を調整する働きを担っているのだそうです。太陽の青い光が体表面のクリプトクロムに届くことで「今は昼間」ということを関知しているのです。
驚いた事にこのクリプトクロム(由来のシステム)は原始の単細胞生物にも見られるそうです。
・・ここまで語られることで、私たちの「見る」と、植物のそれでは異なりながらも「視覚」が進化の過程で枝分かれした同じ根っこを持つものである、というイメージが伝わりました。
同様に嗅覚、触覚、聴覚、固有感覚(位置感覚)、記憶が、植物の進化の結果獲得した固有のものとして語られます。これが面白かった!
そして最後に、「知っている」ということの先にある知能、知性についても、五感同様に安易な擬人化を避けながら、一貫して慎重に可能性をにおわせて終わっています。
「知」にも生物ごとの必要に基づく多様性があるのだ、という思いが余韻として続いています。
人間の五感と対比させながら、植物の「感覚」を最新の科学的知見に基づいて説いています。語り口は判りやすくありながら慎重で、安易な擬人化がもたらす誤解を丁寧に避けているように感じます。
私も耳にした事がありますが、かつて「植物も人と同じように会話をし、聴き、質の良い音楽を求めている」という話しが流布された時期があります。この本はそのような擬人化された植物の感覚をきっぱりと否定しながら、あえて人間の五感を対比させたのは、「感覚」を理解するには私たちの経験を基にするのがよいということなのでしょうね。
例えば「植物は見ている」の章では、植物には「目」と「脳」がないので、私たちのように網膜で結像したものを中枢神経で処理をすることはないけれど、私たちの目や身体の中にある「光受容体」は持っていて、そこから様々な外界の情報を得て活用している事が示されます。
また、青い光を受容する「クリプトクロム」は植物にも人間にもあり、ともに体内時計を調整する働きを担っているのだそうです。太陽の青い光が体表面のクリプトクロムに届くことで「今は昼間」ということを関知しているのです。
驚いた事にこのクリプトクロム(由来のシステム)は原始の単細胞生物にも見られるそうです。
・・ここまで語られることで、私たちの「見る」と、植物のそれでは異なりながらも「視覚」が進化の過程で枝分かれした同じ根っこを持つものである、というイメージが伝わりました。
同様に嗅覚、触覚、聴覚、固有感覚(位置感覚)、記憶が、植物の進化の結果獲得した固有のものとして語られます。これが面白かった!
そして最後に、「知っている」ということの先にある知能、知性についても、五感同様に安易な擬人化を避けながら、一貫して慎重に可能性をにおわせて終わっています。
「知」にも生物ごとの必要に基づく多様性があるのだ、という思いが余韻として続いています。
洗練の極み「Natural Fashion」 ― 2013年04月15日 08:13
いやぁ、久しぶりに鮮烈な写真集に出会いました。
ハンス・シルベスター(Hans Silvester)氏の「Natural Fashion Tribal Decoration from Africa」です。2008年発刊です
この写真に目が釘付けになりました。
エチオピアのSurma族とMursi族の部族ファッションだそうですが、表紙から強烈な個性があふれ出ています。
乗せたりくわえたり編んだりと、花の扱いがとても自由で、現代のトップフラワーデザイナーのようです。
一見雑に見えるように収めるのって技術的にも難しいはずで、細かいアクセサリーとあわせて繊細さと大胆さと、、なんて講釈は野暮ですね。
鶏!
自由!
何世代か前に天才が現れたのでしょうか、それとも部族間で華美を競ったのでしょうか、、この写真集自体はハンスさんがきちんと演出して撮ったものと推察しますが、このような文化風俗をかいま見る事が出来て心躍りました。
もちろん彼らも私たちと同じ「今」を暮らしている訳でして、グローバル化、といいますか西欧化も進んでいると思いますし、地域の政情に大きく影響を受けるでしょう。その結果このファッションがその伝統的な系譜からは失われる事もあるかもしれません。
しかし、たとえそうなったとしてもこの美意識はどこかで受け継がれて行くだけの洗練を持っている、、そう感じました。
映画「草原の椅子」 ― 2013年03月19日 23:16
普通の人の普通だけど奇跡のような、清らかな物語りです。
事件らしい事(殺人とか逃亡とか)はほとんど何も起きないのですが、長めのカット割りと抑えた芝居で、登場人物のそばに寄り添っていられるので、心の動きがしっかりと伝わって来ました。
最後の桃源郷と呼ばれるフンザでの初の本格的なロケもあくまで舞台としての撮り方で、声高な「メッセージ」はなく(いや、正確には強烈にあるのですが表現はかなり控え目です)、予感と余韻だけを残して静かに終わるという映画でした。
いかにも、作るのも売るのも大変そうですが、だからこそ関わった方たちは、きっととても誇らしかったことだろうと拝察します。
その中で一際印象に残ったのが小池栄子さん。主人公たちを際立たせる「普通に見かける人々の気持ち悪さ」を見事に演じておられて、特に目の気持ち悪さが素晴らしかったです。
また、キーパーソンであるはずの子供の存在感が、本編を通して一貫して薄く感じられ、少し物足りないかとも思いました。しかし、エンドロールの最後の最後、一枚の写真が映し出され、この子はこれから生き続けるんだ、という「韻」を残して行きました。凄い演出だなぁ。
もうすぐ終演だそうですが、是非。お勧めです!
映画「草原の椅子」公式サイト
http://www.sougennoisu.jp/
事件らしい事(殺人とか逃亡とか)はほとんど何も起きないのですが、長めのカット割りと抑えた芝居で、登場人物のそばに寄り添っていられるので、心の動きがしっかりと伝わって来ました。
最後の桃源郷と呼ばれるフンザでの初の本格的なロケもあくまで舞台としての撮り方で、声高な「メッセージ」はなく(いや、正確には強烈にあるのですが表現はかなり控え目です)、予感と余韻だけを残して静かに終わるという映画でした。
いかにも、作るのも売るのも大変そうですが、だからこそ関わった方たちは、きっととても誇らしかったことだろうと拝察します。
その中で一際印象に残ったのが小池栄子さん。主人公たちを際立たせる「普通に見かける人々の気持ち悪さ」を見事に演じておられて、特に目の気持ち悪さが素晴らしかったです。
また、キーパーソンであるはずの子供の存在感が、本編を通して一貫して薄く感じられ、少し物足りないかとも思いました。しかし、エンドロールの最後の最後、一枚の写真が映し出され、この子はこれから生き続けるんだ、という「韻」を残して行きました。凄い演出だなぁ。
もうすぐ終演だそうですが、是非。お勧めです!
映画「草原の椅子」公式サイト
http://www.sougennoisu.jp/
緑の運河 芝生の道 ― 2013年01月29日 18:18
2004年、ある自動車メーカーのコンペに提案した未来の車(この言い方が既に陳腐ではありますが)、非採用で年月がたったのでこちらにて。
ベルリンの風景、車道を芝生にしてそこを静かに走る姿をイメージしました。
提案したい(取り組みたい)のは道路と一緒に考えた自動車の未来です。
自動車には誕生以来のイノベーションが沢山あってどんどん進化しました。しかし、自動車自体が急激に陳腐化しているかもしれない、、そう思いはじめたのは自動車にコンセプトとレトロのブームがあった90年代のころ。
2000年を過ぎて、自動車はエコに向かったけど自動車だけの問題ではないように思えてきて、道路はこのままでいいのかな、と。道路にももちろん進化があったのですが基本は不変に思えて、そろそろ改善してもいい頃なのではないかと思っていた時、司馬遼太郎の「草原の記」を読みました。
そこには古代のモンゴル人の描写を通して筆者の「地面を剥ぐな」という叫びを感じました。同時に「道」のあり方を示唆されたように思ったのです。土地を覆うものを剥いで作るのではなく、愛すべき土地を隅々まで行き渡らせるようなあり方、、そんなことを思いました。
提案では深く触れられませんでしたが、道路を芝生にする事で何が改善される(と期待している)のかと申しますと、、
・街が美しくなる
・裸足であるく事が出来る
・緑化面積が増え空気中の炭素固定に期待
・雨水浸透面積が増え、急な降雨に耐えられることを期待
・保水面積が増え、ヒートアイランドの緩和に期待
都会の抱え込んだ問題点に少しでも寄与したらいいなぁと思いますが、それ以前に街が美しい事、裸足で走れる事がどれだけ豊かであるか、、今でも想像するとワクワクします。
当然、路面の維持管理やライフライン、自動車自体に様々な改変を要求します。自動車の再発明、道路設計の見直し、道路用芝生の品種開発、ライフラインの敷設など技術的なこと、あわせて維持管理など運用面でも沢山の見直しが必用でしょう。
しかし実に傲慢な態度ではありますが、それこそがイノベーションの種だろうとも思ったのでした。
それで、肝心の自動車はこんなコンセプトでした。地面を走るのではなくすべる感じ。ふんわりと優しい、万一人を巻き込んでも笑い話になるような軽い存在であってほしいと思います。
色々矛盾や無理も多いのですが、こうあって欲しい未来としてイメージしています。
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