写研フォント!2024年10月09日 18:46

みなさまこんにちは^^

いよいよ写研のフォントがデジタル環境で使えるようになります!(2025/10/15より)
ナールとゴナには頭が上がらないベテランデザイナーは沢山いらっしゃいますでしょ?私もです。
写研とモリサワがたもとを分けてから再び合流するまでには随分と長い時間がかかりましたが、これからは一緒です。関係者の皆さまのご尽力に感謝を申し上げます。

写研フォントってなに? 知って使えばもっと楽しい書体の背景

素敵な"ブリコルール"発見!2024年10月07日 10:10

みなさまこんにちは^^

すぐ試作を作って試す「RP/ラピッドプロトタイピング」についてお話したときに、あり合わせのもので作る「ブリコラージュ」についてちょっと触れました。
小学校の用務員の先生とか自転車屋さんのおやじとか。家電の修理屋さんとか、農家の方の自前のかかしとか獣害対策とか。余った布で服やら鞄やらを作ったり。ちょっとしたものから凝ったものまで、有り合わせの材料でこさえてしまう器用な人、昔から沢山いらっしゃいますでしょ。こういう人を「ブリコルール」と呼びます。

街歩きや旅先で素敵なブリコラージュに出合うとちょっとわくわくしますが、作られた方(=ブリコルール)に直接出合うことは少ないんですよね。
それが、ある動画を見ていたら素晴らしい方を見つけてしまいました。

ブリコルール しっちゃん


チャンネル*のゲストでしっちゃんと呼ばれている、軽自動車(エヌワン)の車中泊を楽しんでおられる方です。しっちゃんは自作で車内に装備を作られているんですが、自然体で有り合わせのものでどんどん改良していかれるんですね。そしてその作られたものがとてもチャーミングなんです。
さらにさらに、結構作り込んだものでもあっさり捨てて、新しいものにどんどん変えて行くところは達人の閾さえ感じます。
しっちゃんこそナチュラルボーンデザイナーだと思います。

私もブリコルールの気質があったのでデザインの仕事では大いに楽しませてもらっています。ブリコルールはデザイナーにとって基本的でありながら貴重な気質といえるでしょう。

*)石川県の方で、震災後も発信してらっしゃいます。そちらもぜひご覧ください。

CREA WEB 掲載のお知らせ2024年10月04日 10:24

みなさまこんにちは^^

ミチクサオーバル、今度はCREAのウェブサイトに載せて頂きました!

CREA WEB


オーバルのインテリアとの組み合わせの楽しさが注目を集めまして、メディアの皆さまにもご好評です。ぜひ実物を手に取って見てください!

ミチクサはこちらからお求めくださいませ→オンラインショップ

種を抱えて歩く ウェットティッシュホルダー2024年10月02日 10:10

みなさまこんにちは^^

生活の中で(おや、これは、、)と思ったり感じたことがデザインの種になることが多いのですね。だから生活はとっても大事。絵に描いたようなきれいな暮らしでもいいですし、矛盾とエクスキューズに満ちた凌ぎでもいいです。本当の生活がそこにあれば。

私は生活の中で拾い集めた「種」を心にいくつも抱えながら雑貨店を回るのが好きです。(この課題は市場では価値がないのかな)とか(あ、やられた!)とかぶつぶつ言いながらニヤニヤしています。(怪

数カ月前、そんなウインドーショッピングの途中で素敵なデザインに出会いました。

サラサデザイン ウェットティッシュホルダー


ウェットティッシュのケースの種とアイデアがあったんですが、サラサデザインのものをしばらく使って見て、私のアイデアはお蔵入りになりました。お蔵入りは残念ですけれど、種の芽吹く姿が見られました。これはこれで楽しいことです。

最近はリアル店舗が減ってきまして、こういう機会が貴重になっています。

雑誌「子供の科学」の100周年記念のインタビューに参加させて頂きました!2024年09月30日 10:49

みなさまこんにちは^^

雑誌「子供の科学」がなんと100周年を迎えられました。
このような硬派(!)な雑誌が現在も読者を獲得して存続するという事実は、幅広い世代に希望をもたらすでしょう。

さらになんと!
その記念インタビューに、ノーベル賞受賞者と並んで掲載して頂きました。これを僥倖といわずして何といいましょう。

子供の科学 100周年記念 寄稿


子供向け科学雑誌は、私のモノづくりの原点にずっと寄り添ってくれていました。
あせらためて感謝とお祝いを申し上げます!

「夢はかなう」と言っていい2024年09月27日 10:57

みなさまこんにちは^^

野球はおかきですか?私はスポーツ観戦全般が好きで、野球では地元チームを応援しています。アメリカでは大谷翔平が大暴れしていまして、それも楽しみです。

少し前に五輪がありまして、メダリストの多くは「夢はかなうと伝えたい」という様なことをおっしゃっていました。スポーツ選手の多くは、実感として「夢はかなう」と言い切ります。
ここで興味深いのは、才能がなく諦める人が一般の人よりも沢山まわりにいる状況の中で、それを感じていることです。

さて、目の前の子供が目をきらきらさせて「大谷みたいになる!」と言ったら何と答えますか?「きみなら出来るよ!」それとも「いやそれはちょっと・・」でしょうか。
さらに、社会人になって久しい同僚が「大谷みたいになる!」と言ったら・・・?
ニュアンスは異なれど、未来のたっぷりある子供には希望的な答え方をし、大人には現実的な話をするのが一般的でしょう。

今日の話題は、この子供に対する答えとして、現実的な話をした方が良いという論調があると知りまして。
現実的な話というのは、「才能は人によって差があるから誰でも出来るものではない。」「才能を見極めず出来るというのは無責任である。」「向いていないことに時間とお金と努力をつぎ込むのは徒労である。」「好きなことを仕事に、なんて言葉に惑わされると一生を無駄にする」といったお話です。
間違ったことは言っていない感じはしますよね。でも、私は、これをいう大人はあまり信用出来ません。

それは「自分の才能に出合うプロセス」として、自分を無条件に信じる期間が必要だからです。

私の話で恐縮ですが、私がデザイナーになろうと決意した高2の時の美術の成績は10段階の2でした。私が恵まれていたのは、無理だよという大人より身近に「きみなら出来るよ」と言ってくれた大人が複数いたことでした。私には自信も根拠も全くなかったものの、不思議と何時かはたどり着ける、と信じられたのでした。
高2男子相手なら「いやいや現実を見て勉強しなさい」と言われても不思議はなかったでしょう。
同じ人でもその時の気分でいくらでも変わりそうな無責任な意見の中で、先に多くの肯定的なものに触れられたのは、幸運そのものでした。
その後デザイナーとして修業を積ませて貰い、その世界でいかせて頂いています。それを今振り返りますと「デザインに活かせる能力を探り当て、それを活かせる場に巡り合う時間が持てた」という感触があります。
初期の無邪気な決心が、不運や厳しい現実の間に"極くたまに訪れる幸運"を掴む力になったのです。

同時に、デザイン以外のことにも沢山手を出して沢山諦めました。「好き」「やって見たい」ということに躊躇無く取りかかり、そしてダメと思い知る。これを続けると自分の「好き」の中から「向いてる/向いてない」が見えてくるようになります。これもあり難いことでした。

夢をかなえた人の「夢はかなう」は説得力があります。それを真に受けて行動を起こすことが、自分の才能と出会うプロセスの第一歩となります。
ですから、夢をかなえた人には「夢はかなう」とどんどん言ってもらいたいですね。

AXIS Web 掲載のご紹介2024年09月25日 10:46

みなさまこんにちは^^

AXIS webで「ミチクサ オーバル」が紹介されています。

AXIS Web

デザイナー・河野史明が手がけた道端の野花を生ける小さな花器「ミチクサ」

"デザイナー・河野史明が手がけた"って凄い大御所感(笑
あり難いです。

本日オープンする「KONCENT 渋谷スクランブルスクエア店」にも並びます。
ぜひお手にとってみてください!
(その他ショップ・ネットでも発売中です)

意味世界と物理世界 穢れの話2024年09月23日 10:48

みなさまこんにちは^^

「UIは『意味世界』と『物理世界』のインターフェイスである」というお話の続きです。
先のお話では、ミュージックプレイヤーの操作系が、ウォークマンの多ボタンの効率的な使いやすさから、iPodの整合性のある統合的な使いやすさへとシフトした経緯を例にしました。

今日は「意味世界」と「物理世界」が私たちの日常の中で混ざり合っている例を、と思いまして、「穢れ(けがれ)」のお話を。

「けがれ」と打ちますと変換候補に「汚れ」がでてきます。「汚れ」は一般的に「よごれ」と読みますけれど、文字としては同類になっています。よごれ=けがれ、という事ですね。でも私たちは結構「汚れ(よごれ)」と「穢れ(けがれ)」を感覚的に区別しているんです。

たとえば、食後の食器は「汚れ(よごれ)」ていますが、きれいに洗えば再利用出来ます。当たり前ですよね。でも、その食器でドブ掃除をしたらいかがですか?きれいに洗って熱湯消毒したとしても、食器として使うのはかなり嫌ですよね。この感覚は「穢れ(けがれ)」です。
私たちは「汚れ(よごれ)」は落ちていても「穢れ(けがれ)」たものはいやなんですね。
「汚れ(よごれ)」は物理世界の話で収まりますが、「穢れ(けがれ)」は意味世界のものです。

そもそも、食事中の皿の中は「食べ物」そのものですが、食べ終わってシンクに下げられるとその食べ物の残りは「汚れ(よごれ)」に変わります。この汚れをすぐに洗えばお皿はきれいですが、ずっと放っておくと「きたないお皿」となり、洗っても「穢れ(けがれ)」をまとうようになります。
また、どこからが「汚れ(よごれ)」で、どこからが「穢れ(けがれ)」なのかは、人によって差があるでしょう。意味世界のものなのですから当然です。

余談ですが、「穢れ(けがれ)」は衛生観念の側面を持ちます。死人が出た後に人に会わない「忌」や、治水上触ってはいけない土地に建てる「祠」などのように、世代を超えて蓄積された経験が感性として継承されたものでしょう。

このように、物理的な現象に意味を汲み取ってしまうのが私たちの性(さが)、普通の感覚です。
UIはこの「物理的な現象に意味が宿る」ということに敏感でなくてはいけません。ここがデザインのしどころであり、面白いところでもあります。

UIは「意味世界」と「物理世界」のインターフェイスである2024年09月20日 18:06

みなさまこんにちは^^

UIが「人は交換したい生き物」という特性があるから成立する、というお話をしています。

「交換」に着目していますが、交換と同時に大切なのが「共有」です。言語が情報交換であると同時に、情報の共有であることは理解しやすいです。
小さな子供がぬいぐるみを指して「この子は赤ちゃんね」と一言いうだけで、その場の集団はそのシチュエーションを共有し、一つの世界をつくって行きます。これって凄いことなんですよね。

カラスは知能の高い生物として知られていて、単独では8歳程度の子供より頭が良いそうですが、2人で椅子を動かすような共同作業が出来ません。また、集団で狩りをする動物は共同作業をしますが、特定の学習期間に獲得しないと出来ないまま一生を過ごすそうです。ましてや、おままごとのようなごっこ遊びは出来ません。(動物は出来なくて人間だけが出来る、というものは本当はまだ観察されていないだけ、ということも多いので、今後変わる可能性がありますが)

ごっこ遊びに見られる「イメージの共有」が、人を人足らしめたと考えるのが現在の主流です。イメージは、目的、役割だけに留まらず、世界観、価値観、思想、倫理、宗教に及びます。これを仮に「意味世界」とまとめますと、人はまさにこの「意味世界を交換、共有したい生き物だ」といえるでしょう。

さて、UIは操作性に関わるところが主ですけれど、物理世界の理屈だけでは説明が出来ないことがあります。
例えば、ちょっと昔の話ですがウォークマンとiPodを比較しましょう。
ウォークマンはボタンが複数ありました。その方が使いやすく、理にかなっていたのです。そしてボタンは多い方が「高機能で値段が高い」ものでした。
一方iPodは特徴的なホイールUIだけで全ての操作を行いました。物理的には非効率な構造でしたが、メニュー構造を理解しやすく「スマート」に見えました。これは歓迎され、その後のUIに多大な影響を与えます。
UIデザインの現場において、iPodのスマートさがウォークマンを古くさく見えるものにした、という事実はちょっとした衝撃でした。iPodの意味世界がウォークマンの意味世界より「素晴らしいもの」として歓迎されたからです。これは思想戦だったのだ、とあらためて思い出されます。

「UIは『意味世界』と『物理世界』のインターフェイスである」
このことを意識する機会は少ないかもしれませんが、絶対に忘れてはならない視点です。
うーん、やっぱり倫理にまで行きますね、今後は。

ビジョンの共有と交換2024年09月18日 10:13

みなさまこんにちは^^

「人は交換したい生き物」という認知を得てから、色々と腑に落ちることがありまして。そのうちのふたつをご紹介します。

ひとつはなぜ「利他」があるのか。
倫理や宗教が利他にたどり着くのか。利他的な人ほど幸福度が高いのは何故か。この疑問に対する「人は与えたいものだから」「そして与えると同時に受領しているから」という回答がありまして、確かにそうだと思いますけれど、これを一言で「交換したい」と言い換えるのはとてもしっくりきます。
そして「交換によって価値が増す」という概念も肌感覚としての連続性を感じます。貨幣が生まれてくる流れも浮かんできます。

もうひとつ。
そもそもUIデザインは、人が交換したいと考えないと成立しないものだ、ということ。
人とモノのインターフェイスでは、モノの姿が人に行為を促し、人はその行為を行い、モノはそのフィードバックを人に返し、人はそのフィードバックから次の行為にうつる・・。アフォーダンスとかメンタルモデルとかで説明されるUIのミクロの仕組みです。
この「人を促す形(アフォーダンスがある)」とは、例えば椅子は座る形、ボタンは押す形、ノブは回す形をしている、と説明されます。そしてこの形の意味は既に「メンタルモデル」として持っている、もしくは過去の経験から捻出される、と説明されます。この内的な意味群を獲得する経験は、乳幼児の観察によっていくつも見いだされています。
(言語の獲得については今井むつみ秋田喜美共著「言語の本質」が面白いです。)

で、この意味を獲得して行くことがまさに「交換」なんです。自分がした行為そのもの、その軌跡(地面に残る指先の跡とか)、発した音、それらのものと、その結果が結びつくこと。これを「交換」というメタファーで捉えられるんです。

・・・ちょっと分かりにくい話かも。私が興奮している理由が今一つ書けていない気がします。すみません。。
「交換」を「ギブ&テイク」と言い換えたらどうでしょう。人が何かを行うと、そこに情報のギブ&テイクが行われている。ギブとテイクが同時に起きている。この「同時性」が私にはツボなのでした。
続きはまた。
dmc.
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