「気持ちよく人生の坂を下る」2013年09月02日 23:29

ここ数ヶ月を通して「気持ちよく人生の坂を下るための」という言葉が浮かんで参りました。
コンセプトがばっちり言えているとは思えないのですが、アイデアがいくつも想起され、心軽く感じる事も出来ましたので、私の中では今までで一番腑に落ちると思っています。

坂道も人生も登りより下りの方が負担も大きく辛いのに、登るものばかりが注目されてしまいますが、この下りが気持ちよく過ごせたら、味わいのある時間が過ごせるのでは、と感じます。

「坂を下らせない」ものの押し付けがましさをつつしみ、わいわいとしみじみと行けたら、と。
そして、そのためにモノ(人が作った仕組みや装置)が使えたら、、そのためにはまだまだやることがあるのでは、そんな風に考えています。

意に反して関わる事になりずっと気を重くしていた事が、突然必然性をまとうということが希にあります。ドラマなら伏線ということになりますでしょうか、それが私には「老」なのかもしれません。

過去記事:メメント・モリ「安心して自宅で死ぬための5つの準備」
http://dmc.asablo.jp/blog/2013/08/26/

超軽量テーブル2013年09月03日 11:12

こういうのあったらいいなぁ、ないなぁ、デザインしよう、、とあれこれしている間に良いものがリリースされていたりすることもあります。
超軽量のテーブル、見つけてしまいました。

SOLA TITANIUMGEAR Super Table#1

SOLA TITANIUMGEAR Super Table#1
パーツは3つ、チタンとカーボン製で正味157gです。軽い!

SOLA TITANIUMGEAR Super Table#1
パンチング部分はストーブ(コンロ)を乗せるアフォーダンスに。
軽量化や耐熱、通気にもよさそうですが、チタンの加工を考えると実質的にはアフォーダンスと外観の特徴の意味あいが強いでしょうね。

SOLA TITANIUMGEAR Super Table#1
仕舞い寸法は袋の縁を折って150mmx250mm、166gでした。

(私のは100g以下をめざしておりますが、道は遠いです)

ライフアドベンチャーギア(または家電)2013年09月04日 10:32

生き残るための「サバイバル家電」。

先日の「気持ちよく人生の坂を下るための」というコンセプトを、家電にあててみました。

「坂を下る」には、諦観を含む響きがありちょっと気になっていたのですが、日々の暮らしの方にポイントを置くと、「サバイバー」という呼称が浮かんできました。以前、長寿で元気な方を敬意を込めて「サバイバー」と呼ぶと聞いていましたので。

「サバイバル」には前向きで持てるものの中から工夫して知恵を発揮する、そういう感性が想起されます。機能低下した中では、日常のちょっとしたことが思いも寄らず大変なので、、。

「ここで転んだら命にかかわる」
「なんでもない普通の飯が最高に旨い」
「外気の変化に超敏感かつ要対処」
「食と排泄は用意周到に」
「怪我と病気に要注意」
・・・などなど、なんといいますか、後期高齢者の毎日を横で拝見していますとアウトドア感覚なんです。

ということで「サバイバル家電」
・・うーん、、ちょっと違うかな?
と悩んでおりましたらK先生より、それは「ライフアドベンチャーギア(家電)」では?と。

K先生、まさしくそれです!
ありがとうございます!!

早速カテゴリー名に拝しまして、日々追いかけたいと思います。

過去記事:「気持ちよく人生の坂を下る」
http://dmc.asablo.jp/blog/2013/09/02/

Mario Luca Giustiのグラス2013年09月05日 17:19

Mario Luca Giusti
Mario Luca Giusti(マリオルッカ・ジウスティ)のメタクリル樹脂製ワイングラス、130gです。

安っぽさは微塵もなく、よく磨かれた伝統的で重厚な形状が美しく、かつ軽いです。
Mario Luca Giustiはフィレンツェのデザイナーで、樹脂ならではの発色の良い美しい食器を沢山デザインしています。

この軽さ、馴れると癖になりますね。ガラスや陶器の重々しさが鈍重に感じられるようになってきます。(もちろん、その重さがいいと感じるのも確かですけれど)この軽さならアウトドアに持ち出すのも有りですね。

しかし何といいましてもお年寄りの日常使いにとてもいいです。
軽さはもちろん、「掴む」ことが苦手になってきた方には太くて節のあるステム(柱の部分)が効いてます。何よりきれいなグラスで飲む方が食事が楽しいですしね。
「悪い意味で福祉機器らしいデザイン」のマグを買うなら断然こちらをお勧めします。

Marioluca公式サイト:
http://www.mariolucagiusti.com/catalogo/Bicchieri/nocat/Victoria%20and%20Albert

「子供に戻る」2013年09月06日 23:13

日本の統計では7割の人が75歳を過ぎると自立度が少しづつ下りながら晩年を過ごします。
自立度の下り方は各個人によって様々だと思いますが、幾つかのパターンには整理出来る事でしょう。

その中で、私自身が着目しているひとつは「認知」の部分の変遷です。2025年を念頭に置くと、どの様な作法をその機器に採用すべきかという課題に仮説が見いだせるのではないか、という思いがあります。

ざっくりと言いますと、一般的に15歳から25歳までの10年を核とした青春期に触れた文化、文明、それを支える技術とその作法は、一生を通じて失われにくいよう(エビデンスなし)なので、そこは一つの基準となるでしょう。

しかし、認知が失われて行くと、10代前半に獲得したであろう作法も失ってしまうようなのです。

例1:儀式(葬式)の進行がどの宗派か判らない修道女。
例2:ライターで線香に火を着ける際、火の先端ではなく根本にあててしまう元喫煙者。

1の例では、儀式である事は判り、2では火をつける事はできますので、「細部」や「コツ」を失っているようにも見えます。概要が判るのに細部が判らないというのはそれ自体は問題は少なそうですが、そこに主体者(行為を行う者)として関わると、混乱してしまいます。小さな混乱は大きな混乱を呼び、事故のリスクを上げてしまいます。

認知症が進んだ個人に何か機器の操作をさせることはない、とお思いの方も多いと思いますが、例えばトイレで用をたす、という身近な行為でも手順を分解すると複雑なのです。トイレは在宅医療の自動化には重要な場所で、そこに設置される機器に対してどのように認知し、関わる場合はどうすべきかは、絶対にないがしろには出来ない課題です。

これらは私の見識よりも遥かに医療面からの研究が進んでいると思います。しかしながら、デザインへの応用という意味ではこれからだと思います。

そこで、一つの着目として、「老い」が「成長」の逆行であるならば、老いを「子供に戻る過程」と捉えるというのがありそうです。
ちょっと乱暴なのですが、この見方だと参考になる事例も多いので、「補助線の一つ」として意識して見ようと思います。
dmc.
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