意味世界と物理世界 穢れの話 ― 2024年09月23日 10:48
みなさまこんにちは^^
「UIは『意味世界』と『物理世界』のインターフェイスである」というお話の続きです。
先のお話では、ミュージックプレイヤーの操作系が、ウォークマンの多ボタンの効率的な使いやすさから、iPodの整合性のある統合的な使いやすさへとシフトした経緯を例にしました。
今日は「意味世界」と「物理世界」が私たちの日常の中で混ざり合っている例を、と思いまして、「穢れ(けがれ)」のお話を。
「けがれ」と打ちますと変換候補に「汚れ」がでてきます。「汚れ」は一般的に「よごれ」と読みますけれど、文字としては同類になっています。よごれ=けがれ、という事ですね。でも私たちは結構「汚れ(よごれ)」と「穢れ(けがれ)」を感覚的に区別しているんです。
たとえば、食後の食器は「汚れ(よごれ)」ていますが、きれいに洗えば再利用出来ます。当たり前ですよね。でも、その食器でドブ掃除をしたらいかがですか?きれいに洗って熱湯消毒したとしても、食器として使うのはかなり嫌ですよね。この感覚は「穢れ(けがれ)」です。
私たちは「汚れ(よごれ)」は落ちていても「穢れ(けがれ)」たものはいやなんですね。
「汚れ(よごれ)」は物理世界の話で収まりますが、「穢れ(けがれ)」は意味世界のものです。
そもそも、食事中の皿の中は「食べ物」そのものですが、食べ終わってシンクに下げられるとその食べ物の残りは「汚れ(よごれ)」に変わります。この汚れをすぐに洗えばお皿はきれいですが、ずっと放っておくと「きたないお皿」となり、洗っても「穢れ(けがれ)」をまとうようになります。
また、どこからが「汚れ(よごれ)」で、どこからが「穢れ(けがれ)」なのかは、人によって差があるでしょう。意味世界のものなのですから当然です。
余談ですが、「穢れ(けがれ)」は衛生観念の側面を持ちます。死人が出た後に人に会わない「忌」や、治水上触ってはいけない土地に建てる「祠」などのように、世代を超えて蓄積された経験が感性として継承されたものでしょう。
このように、物理的な現象に意味を汲み取ってしまうのが私たちの性(さが)、普通の感覚です。
UIはこの「物理的な現象に意味が宿る」ということに敏感でなくてはいけません。ここがデザインのしどころであり、面白いところでもあります。
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