外部に宿る記憶2024年03月18日 19:08

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

先月、大量処分の過程で(試算的な価値とは別に)モノには3つの価値があることを体感したお話を書きました。その中の一つ「記憶を呼び起こす」について、UIとの関連に触れたいと思います。

エピソード記憶
フランスの作家「マルセル・プルースト」の著書「失われた時を求めて」の作中で、マドレーヌを紅茶に浸した際の匂いから幼少の記憶を思い出す一節があることから、香りから記憶や情景が鮮やかに蘇る現象に「プルースト効果」の名が付いています。これは特定の匂いがある記憶を思い出させることを示しています。(名付けの由来から「マドレーヌ効果」と間違って覚えていました。余談。)
ある特定の体験と外的刺激がセットになって記憶されていて、「その刺激がきっかけとなってその体験を思い出す」という現象は、匂い以外の刺激でも起きます。その曲を耳にするとあの試合を思い出すとか、海沿いの日暮れの渋滞にあたると子どもの日焼けした寝顔を思い出すとか、そういうことをだれしも一つはお持ちだと思います。
これは「エピソード記憶」と呼ばれる、個人的な体験や特定の出来事に関連する記憶です。記憶そのものは私の中にあって、刺激は切っ掛けに過ぎないように見えています。日常的な体感としてはそれが普通だと思います。

外部に宿る記憶
ここで、今手元にはないけれど毎日使うものを思い出して見て下さい。愛用の茶わんとか、壁の時計とか、カレンダーのグラフィックとか。正確に思い浮かべられる方はどのくらいいらっしゃるでしょう。以前に茶わんの記憶について試した事があるのですが、私のまわりでは、私も含めて一人も正確に覚えている人はいませんでした。そして、当たり前ですが、実物をみればだれも間違えません。自分の親しんだものはよく似たものでも見分ける事が出来ます。この場合の「記憶」はどこまで脳内に収まっているのでしょうね。「きっちりと収まってはいるけれど全て思い出す事が難しい」のか、「ぼんやりとしか入っていないけれど識別出来るポイントはしっかり記憶されている」のか、、もっと違う解釈もあるかもしれません。私が興味を引かれたのは、この現象を「外部記憶」もしくは「記憶の外部性」として捉える考え方でした。
茶わんの模様の記憶は、茶わんの模様そのものに宿っている、という見立てです。人はそのものに宿った記憶の断片を覚えているに過ぎない、という。ちょっと詩的な見方です。
しかし、この「人の曖昧な記憶を『外部記憶』が補完する」というアイデアは、UIと相性がいいのですね。直感的に使える、もしくはぱっと見は難しそうでも触れば自然と使えるようになる道具や装置は、インターフェイス自体が使い方のヒントになっています。適切なヒントは、使用者の記憶の断片の中から、適切な動作を想起させます。この想起させるきっかけとしての文字や絵、操作を促す形、構造を理解させる配置などは、「記憶の外部性」を上手く使っている例と言えるでしょう。

ちなみに「外部記憶」というワードは、ざっと検索した範囲ではハードディスク等の意味以外には使われていませんでした。認知や記憶に関する最新の知見とは別の話です。念のため。

モノの環境化:環境への期待値に寄与する2024年03月04日 11:25

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

モノを群相として捉える話を続けています。
語彙を上手く使い分けられているのかちょっと心もとないので一度整理して見ます。

「環境をモノとして扱う」ことと「モノが環境化する」こと
「環境をモノとして扱う」ことと「モノが環境化する」ことは、言葉が似ていますが全く違うことをさしています。以下の意味で使っています。

【環境をモノとして扱う】
環境を意図をもって改変すること。人のモノへの態度をさす。
【モノが環境化する】
モノが配置される場所によって目的性を強化したり失ったり変質したりすること。モノの変質をさす。

環境を意図で満たすことは難しい
まず、前者の「環境をモノとして扱う」の究極は、身の回りのものすべてが意図に沿ってモノで満たす事でしょう。しかし、すべての空間を自分の意図や目的に応じて整理し、生活空間を完璧に構成するのは難しいことのように感じます。知識も経験も必要ですし、気持ちは移ろうものなのでそれを内包させるのはプロの仕事でしょう。
普通の人々は、欲しいと思うものや憧れるもの、いつか試してみたいものを手に入れ、使い、並べ、少しずつ改変していくことで、生活空間が出来て行きます。これが自然な成り行きですし、その過程は楽しいものです。
私自身は、整然とすべてに意図が行き届いた空間には大いに畏敬と美を感じる一方で、雑然としながらもその人の手の届く範囲に全てがあるような空間に強く惹かれます。

モノが環境化する
話は飛びますが、引っ越し先のがらんとした部屋に荷物が沢山入ってきたとたん暖かくなった、ということを経験しました。物理的に空気の流れがかわり、熱容量も変化するからだそうです。(余談。避難所で寒い時には荷物で空気のたまり場をつくる事が有効ですって。)
家具の配置で動線も変わりますから、部屋の環境としての質は、モノの配置や量に影響を受ける、と言えるでしょう。
しまわれたり飾られたりしているモノのいわば「出番がない時」には、大きさや素材や収納性(積んだり倒したりしても壊れずしまいやすい事)が、本来の目的とは別の所で効いてくるんですね。

環境への期待値に寄与する
また、娘たちが小さい時はお菓子の道具が沢山ありました。「○○がつくりたい!」と言った時にその道具や材料がすぐ揃う事が、娘たちにとっては驚きであり私たちにとっては喜びでした。のちに娘の一人が「このキッチンでは何でも作れそうな気がしていた」と言いっていました。これは娘の経験が「環境への期待値」を高めたのでしょう。これをモノの側から見ますと、「しまわれたモノたちが環境への期待値に応えた」とも言えそうです。この「環境への期待値に寄与する」は、モノの捉え方の一つとして大事かもしれません。

一つの物をデザインする際には、全ての空間の意図を考慮することは不可能ですが、その物を手に取る人が何に魅力を感じ、どのように生活の中に取り入れ、また不要になった時にどのように扱われるかを想像することは楽しく、また必要な作業だと思います。この思考過程で、モノを群として、環境として捉えるという視点は大切だと改めて感じています。
ちなみに、生活環境を整えるチャンス、具体的には家を買ったりリフォームするタイミングでは、プロの知見を活用して、目的のある空間と無目的な空間を上手くミックスし、自分たちに馴染んでいく過程を楽しんでいただければと思います。

環境としてのモノ:レイアウトの重要性2024年03月01日 16:01

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

生活環境でモノを見渡す
「モノの群相を環境として捉える」という考え方をもう少し具体的にかみ砕いて見たいと思います。
人とモノの関わり合いを、1対1ではなく、一人の人の生活空間から俯瞰して見ましょう。
まずモノですが、時計を見る、音楽を聞く、ポットを使う、リモコンを操作するなど、さまざまな形や距離感で人の生活に関与しています。それぞれのモノは、何らかの目的を持って選ばれたり受け継がれたりしてそこにあるものです。(その使用を通じて目的が変化することもありますが)一定の目的性を持つことが重要な特徴です。
また、モノには要不要があり、不要になった際には人はそれを捨てたり片付けたりすることができます。つまり、物の生殺与奪は人が握っており、これをモノの「負の絶対性」と呼ぶことができるでしょう。

環境の絶対性
これに対して、環境は与えられたもの、または与える側が意図したものとして捉えられます。本来の意味の環境には負の絶対性は有りません。環境の側に絶対性があり、私たちはただ甘受するしかありません。
しかし、私たちは生活環境を目的に応じて、または要不要によって選択し、変化させていこうとします。住む場所を選んだり、エアコンや家具などを換えたりしますが、これは「環境をモノとして扱う態度の表れ」と捉えることができます。

レイアウトの重要性
さて、モノには一つ一つに目的や必要性がありますが、群として見た時、配置によってその目的性が強化されることがあります。例えば、キッチンで道具が使いやすく並んでいる場合などがこれに当たります。モノが並ぶことでその目的性が相互に強化しあうのですね。
しかし、収納の中に収まっている場合は、モノの目的性も必要性も低くなります。また、飾り棚に飾られている場合は、目的性よりもその人の個性を表現する側面が強くなります。
モノを群として捉えた場合、レイアウト(どこに置くか)が非常に重要であることがわかります。「レイアウトによってその意味や重要性が変わる」というのは、ユーザーインターフェースデザインの基本です。そのUIの基本が、現実の生活空間でも同様の作用を持つというのは非常に興味深いことです。

UIの見方から環境を見渡す、、面白くなってきました。
続きはまた。

モノを群として捉える:環境デザインとしてのプロダクト2024年02月28日 11:44

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

前回は「答えのない問いがらしさを作る」というお話をしました。持ち続ける問い=問題意識が、その人の作るものに一定の個性を与えるということですね。

モノの「群相」
最近、私の問題意識が枝分かれし、新たな問いが芽生えました。
それは、モノを個々の存在としてではなく「群相」として捉えた場合、「環境としてのモノと人の幸せなあり方とは」という問いです。この視点は、空間デザインや都市計画の分野に属するかもしれません。
私がデザインしたものを含め、生活の中に溢れるモノたちを俯瞰して考えるとき、それらは単なる個別の存在ではなく、「群」として環境的な効果、役割を担うというのは自然な考えだと思います。
私はまだ完全には言語化できていないのですが、モノと人との関わりを考えていく中で浮かび上がってきた問いです。これは、最近経験した大量処分の影響を受けていると自覚しています。

環境をモノとしてデザインする
この問いは最近になって認識しましたが、私は過去に何度か環境をデザインすることに夢中になった事があります。その時は、プロダクトデザイナーとしての立場から少し離れたテーマであるため、興味深いと感じつつも、自分にとっての必然性をあまり感じていませんでした。
しかし、先に述べた問題意識が徐々に明確になってきたことで、これまで考えてきた環境のデザインについて、再度整理してみようと思っています。
環境デザインの初心者ではありますが、「モノとしての環境・環境としてのモノ」という視点で「人とモノとの関わり」の地続きの課題である「環境」を考えて見たいと思います。

「答えのない問い」がらしさをつくる2024年02月26日 17:16

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

問題意識と「らしさ」
先日、「答えのない問題を問い続ける問題意識がその人の作家性である」という話を聞きました。これは、私にとってとてもしっくりする表現です。私自身、「らしさ」というものを直接求める活動には答えがなく、目の前の課題に真摯に挑戦した時に自ずと現れてしまう内面性こそがその人の「らしさ」であり、作品であれば作家性だという風に感じてきたからです。

私自身は、以下のような問いの自覚があります。
1)モノと人との関わりは、どんなかたちが幸せなのだろうか。
2)大量生産・大量消費という社会の中で、「一つのモノを大事にしていくこと」と「沢山のモノを消費していくこと」の折り合いはつくのだろうか。
3)モノと人の関わりを時間軸で見た時、どのような「モノの終わり」もしくは「繰り返し」が良いのだろうか。
※3は1に含まれる問題意識ですが、1は人の生活に入って行くあり方、3は出て行くあり方についてです。

私(河野)自身の仕事を俯瞰しますと、UIとプロダクトを同時に見る事が出来たのは1の「モノと人との関わりにおいて、どんなかたちが幸せなのだろうか」という意識が常にあったからだ、と改めて感じました。
2については、ロングセラー志向に現れていると感じます。数年で切り替わるデザインにおいても、表面的な新しさとは別のレイヤーで、使用者の感じるものに一貫性を持たせたいと考える方です。
3については、具体的にこれだというものがまだありません。今後の自分に期待(?)しています。

意識的に「らしさ」をつくる
デザイナーの重要な仕事に意識的に「らしさ」を図ることがあります。メーカーやブランドのアイデンティティ−を創造したり、そのアイデンティティ−に沿ったデザインをするからですね。その場合にも「問い続けているテーマ」をしっかり捉えられれば大丈夫です。
もし、貴社のデザインにおいてうまく「らしさ」が表現出来ていないとお感じならば、「問い続けているテーマ」があるかを確認して見て下さい。もしそこに不安があるようでしたら、貴社が提案するものの背景にある問題意識を言語化してみてください。しっかり捉えられれば、「らしさ」への過剰な意識から離れる事が出来ます。これは朗報だと思います。
dmc.
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