洗練の極み「Natural Fashion」 ― 2013年04月15日 08:13
いやぁ、久しぶりに鮮烈な写真集に出会いました。
ハンス・シルベスター(Hans Silvester)氏の「Natural Fashion Tribal Decoration from Africa」です。2008年発刊です
この写真に目が釘付けになりました。
エチオピアのSurma族とMursi族の部族ファッションだそうですが、表紙から強烈な個性があふれ出ています。
乗せたりくわえたり編んだりと、花の扱いがとても自由で、現代のトップフラワーデザイナーのようです。
一見雑に見えるように収めるのって技術的にも難しいはずで、細かいアクセサリーとあわせて繊細さと大胆さと、、なんて講釈は野暮ですね。
鶏!
自由!
何世代か前に天才が現れたのでしょうか、それとも部族間で華美を競ったのでしょうか、、この写真集自体はハンスさんがきちんと演出して撮ったものと推察しますが、このような文化風俗をかいま見る事が出来て心躍りました。
もちろん彼らも私たちと同じ「今」を暮らしている訳でして、グローバル化、といいますか西欧化も進んでいると思いますし、地域の政情に大きく影響を受けるでしょう。その結果このファッションがその伝統的な系譜からは失われる事もあるかもしれません。
しかし、たとえそうなったとしてもこの美意識はどこかで受け継がれて行くだけの洗練を持っている、、そう感じました。
映画「草原の椅子」 ― 2013年03月19日 23:16

普通の人の普通だけど奇跡のような、清らかな物語りです。
事件らしい事(殺人とか逃亡とか)はほとんど何も起きないのですが、長めのカット割りと抑えた芝居で、登場人物のそばに寄り添っていられるので、心の動きがしっかりと伝わって来ました。
最後の桃源郷と呼ばれるフンザでの初の本格的なロケもあくまで舞台としての撮り方で、声高な「メッセージ」はなく(いや、正確には強烈にあるのですが表現はかなり控え目です)、予感と余韻だけを残して静かに終わるという映画でした。
いかにも、作るのも売るのも大変そうですが、だからこそ関わった方たちは、きっととても誇らしかったことだろうと拝察します。
その中で一際印象に残ったのが小池栄子さん。主人公たちを際立たせる「普通に見かける人々の気持ち悪さ」を見事に演じておられて、特に目の気持ち悪さが素晴らしかったです。
また、キーパーソンであるはずの子供の存在感が、本編を通して一貫して薄く感じられ、少し物足りないかとも思いました。しかし、エンドロールの最後の最後、一枚の写真が映し出され、この子はこれから生き続けるんだ、という「韻」を残して行きました。凄い演出だなぁ。
もうすぐ終演だそうですが、是非。お勧めです!
映画「草原の椅子」公式サイト
http://www.sougennoisu.jp/
事件らしい事(殺人とか逃亡とか)はほとんど何も起きないのですが、長めのカット割りと抑えた芝居で、登場人物のそばに寄り添っていられるので、心の動きがしっかりと伝わって来ました。
最後の桃源郷と呼ばれるフンザでの初の本格的なロケもあくまで舞台としての撮り方で、声高な「メッセージ」はなく(いや、正確には強烈にあるのですが表現はかなり控え目です)、予感と余韻だけを残して静かに終わるという映画でした。
いかにも、作るのも売るのも大変そうですが、だからこそ関わった方たちは、きっととても誇らしかったことだろうと拝察します。
その中で一際印象に残ったのが小池栄子さん。主人公たちを際立たせる「普通に見かける人々の気持ち悪さ」を見事に演じておられて、特に目の気持ち悪さが素晴らしかったです。
また、キーパーソンであるはずの子供の存在感が、本編を通して一貫して薄く感じられ、少し物足りないかとも思いました。しかし、エンドロールの最後の最後、一枚の写真が映し出され、この子はこれから生き続けるんだ、という「韻」を残して行きました。凄い演出だなぁ。
もうすぐ終演だそうですが、是非。お勧めです!
映画「草原の椅子」公式サイト
http://www.sougennoisu.jp/
緑の運河 芝生の道 ― 2013年01月29日 18:18
2004年、ある自動車メーカーのコンペに提案した未来の車(この言い方が既に陳腐ではありますが)、非採用で年月がたったのでこちらにて。
ベルリンの風景、車道を芝生にしてそこを静かに走る姿をイメージしました。
提案したい(取り組みたい)のは道路と一緒に考えた自動車の未来です。
自動車には誕生以来のイノベーションが沢山あってどんどん進化しました。しかし、自動車自体が急激に陳腐化しているかもしれない、、そう思いはじめたのは自動車にコンセプトとレトロのブームがあった90年代のころ。
2000年を過ぎて、自動車はエコに向かったけど自動車だけの問題ではないように思えてきて、道路はこのままでいいのかな、と。道路にももちろん進化があったのですが基本は不変に思えて、そろそろ改善してもいい頃なのではないかと思っていた時、司馬遼太郎の「草原の記」を読みました。
そこには古代のモンゴル人の描写を通して筆者の「地面を剥ぐな」という叫びを感じました。同時に「道」のあり方を示唆されたように思ったのです。土地を覆うものを剥いで作るのではなく、愛すべき土地を隅々まで行き渡らせるようなあり方、、そんなことを思いました。
提案では深く触れられませんでしたが、道路を芝生にする事で何が改善される(と期待している)のかと申しますと、、
・街が美しくなる
・裸足であるく事が出来る
・緑化面積が増え空気中の炭素固定に期待
・雨水浸透面積が増え、急な降雨に耐えられることを期待
・保水面積が増え、ヒートアイランドの緩和に期待
都会の抱え込んだ問題点に少しでも寄与したらいいなぁと思いますが、それ以前に街が美しい事、裸足で走れる事がどれだけ豊かであるか、、今でも想像するとワクワクします。
当然、路面の維持管理やライフライン、自動車自体に様々な改変を要求します。自動車の再発明、道路設計の見直し、道路用芝生の品種開発、ライフラインの敷設など技術的なこと、あわせて維持管理など運用面でも沢山の見直しが必用でしょう。
しかし実に傲慢な態度ではありますが、それこそがイノベーションの種だろうとも思ったのでした。
それで、肝心の自動車はこんなコンセプトでした。地面を走るのではなくすべる感じ。ふんわりと優しい、万一人を巻き込んでも笑い話になるような軽い存在であってほしいと思います。
色々矛盾や無理も多いのですが、こうあって欲しい未来としてイメージしています。
「聖なる怪物」 ― 2013年01月24日 16:50
表紙をめくると、絶世の美少年と謳われた頃からの写真が8ページ。
「紫の履歴書」は、歌手美輪明宏さんの33歳までの自伝で、出版社と内容を変えながら3回出版されました。これはその三回目の第二版(1993年)で、舞台「黒蜥蜴」を観、迫力にすっかり打ちのめされてその場で手にしたものです。
昨年末のNHK紅白歌合戦での好演で思い出し、本棚の奥から引っ張り出してきました。
紅白で歌われた「よいとまけの誕生秘話」も書かれていて、ここからは二人の友人のエピソードから作られた事が判ります。(もっともご本人が後書き書かれたように、個人が特定出来ないようフィクションが入っているようですが)
正直な所、このサインが欲しくて買いましたので、内容については印象が薄かったのですが、改めて読みますと生死を伴う凄まじいエピソードに溢れています。三島由紀夫の評した「聖なる怪物」という表現がまさにぴったりだと思いました。
テレビで見かける事が多いですが、やはり生の舞台でまた拝見したい、、そう思っています。
「ウルトラライトハイキング」 ― 2012年09月26日 23:33
土屋智哉著「ウルトラライトハイキング」です。
ウルトラライトハイキングとはその名の通り、超軽量装備でハイキングする米国発祥のスタイルです。
私はここ数年少しづつ「ウルトラライト」というコンセプトに惹かれていっておりますが、改めて俯瞰して見たくなって求めました。
考え方として、歴史、哲学、原則、日本の流儀が述べられた後、実践としての運ぶ、泊まる、歩く、着る、食べる、飲む、気遣いが紹介されています。
起源は1954年、67歳のエマ女史(というよりおばあちゃま)が軽装で3,500kmの山道(トレイル)を単独走破するという快挙です。エマおばあちゃん凄い!
「自然との濃密な関係を築く」という、自然への姿勢が哲学としてその後の発展を支え、新素材の積極的な活用によってモノも進化してきました。
デザイナーとしてはついモノの方へ気が奪われがちなのですが、それを裏付ける哲学があったればこそ、ということが大切に語られています。
米国発祥のスタイルですが、ミニマルでシンプルで自然との一体感って、なんて日本人的感覚なのでしょう。
装備山盛りのオートキャンプ(こちらの方が米国らしくもあります)もとっても面白いのですが、厳選されたウルトラライトなモノたちと自然を味わうのにも大いに惹かれます。
ところで、私にウルトラライトを紹介してくださったKさんが、本の中で日本の牽引者の一人として筆頭で紹介されているのには本当にびっくりしました!
Kさん、改めてありがとうございます。また色々教えてください!m(__)m
ウルトラライトハイキングとはその名の通り、超軽量装備でハイキングする米国発祥のスタイルです。
私はここ数年少しづつ「ウルトラライト」というコンセプトに惹かれていっておりますが、改めて俯瞰して見たくなって求めました。
考え方として、歴史、哲学、原則、日本の流儀が述べられた後、実践としての運ぶ、泊まる、歩く、着る、食べる、飲む、気遣いが紹介されています。
起源は1954年、67歳のエマ女史(というよりおばあちゃま)が軽装で3,500kmの山道(トレイル)を単独走破するという快挙です。エマおばあちゃん凄い!
「自然との濃密な関係を築く」という、自然への姿勢が哲学としてその後の発展を支え、新素材の積極的な活用によってモノも進化してきました。
デザイナーとしてはついモノの方へ気が奪われがちなのですが、それを裏付ける哲学があったればこそ、ということが大切に語られています。
米国発祥のスタイルですが、ミニマルでシンプルで自然との一体感って、なんて日本人的感覚なのでしょう。
装備山盛りのオートキャンプ(こちらの方が米国らしくもあります)もとっても面白いのですが、厳選されたウルトラライトなモノたちと自然を味わうのにも大いに惹かれます。
ところで、私にウルトラライトを紹介してくださったKさんが、本の中で日本の牽引者の一人として筆頭で紹介されているのには本当にびっくりしました!
Kさん、改めてありがとうございます。また色々教えてください!m(__)m
復刻版「横井庄一のサバイバル極遺書」 ― 2012年09月19日 23:12
山歩き仲間でもある三女と書店に行ったところ、こんな本を見つけてきました。
復刻版「横井庄一のサバイバル極意書」。
正確にはBE-PAL10月号の付録です。横井さん「発見」の40周年(!)記念だそうで、28年前の連載をまとめた書籍の復刻版です。そのような連載も書籍も知りませんでした!
娘はすっかり気に入ったようで一気に読んでしまいました。
イラストを交えて、グアムの森の中で敵から逃れ続け生き続けた生活が具体的に語られています。
インタビューを文字起ししたと思われる文章は読みやすく、生々しいと言うより軽妙な印象です。これ面白いですねぇ、ぐいぐいと引込まれてしまいました。
それにしても森で28年も過ごしてきたなんて凄いなぁ。
帰国から40年、「生き残る」ということがあらためて脚光を浴び、記念館を訪れる人が増えているそうです。
評判の力「ほんのまくらフェア」 ― 2012年09月05日 23:16
昨日書きました通り「名のないものとの出会い」を体験してきました。
今日は「ほんのまくらフェア」 です。
書き出し(これをこのフェアでは「ほんのまくら」と名付けています)のみ印刷されたカバーが掛かり、中が見えないようになっている文庫が100冊。
この写真と棚がもう一つの小さなコーナーでのフェアですが、全てに特製のカバーがかけられ、全てに手書きの紹介文が添えられていて、かかる情熱を感じますね。
ーもう中身もみないで、自分の「まくら」に対する感覚で本を選ぶのって楽しいかもしれない(略)きっと不思議な本との出会いが待っているはずです。ー
そう書かれた通り、100冊全部のカバーに目を通して、書き出しから受ける物語への予感と語り口で印象に残るものを探しました。
・・うーん、、私には選べないかなぁ。。
本当に書き出しの数行、本によっては一文のみの「まくら」からでも伝わるものがあります。しかし、その先をもう少し読みたいかどうか以上の気持ちにはなりませんでした。
ただこれは作品と今日の私との相性と言うのが一番大きいのかも知れません。その意味で「純粋な出会い」は私にはありませんでした。
とは言えもう少し読んで見たい、というのもいくつかありましたので、添えられた紹介文にも目を通しました。
紹介文。
この紹介文は想像以上の影響力ですね。ぱっと立ち上がるものをかなり左右します。そして何より「読んで見よう」という気持ちにさせます。
そうして選んだ3冊です。
カバーをとったところ。
ほぉ、見事にばらばらで、2冊は(失礼ながら)存じ上げない方です。
それぞれ数ページを読んだところでは、まくらで思い描いたイメージに近いもの、近い所と遠い所のあるもの、全然違ったものにきれいに別れました。
企画趣旨は「まくら」でしたが、私にとっては「紹介文フェア」と言えまして、紹介文の「評判の力」(もしくは私自身が気にしているのが実は評判の方であること)を改めて実感する経験となりました。
小説は好きですしそこそこ読める方だと思っていた私にとって、書き出しで選べないと言うのは自分の読み手の実力を見透かされたようでちょっとショックかも。
ちなみにネットの試し読み販売等を見ますと数ページから数十ページ読めるようになっています。こちらは物語りを実際に味わえるので判断しやすいですね。
「ほんのまくらフェア」
新宿 紀伊国屋本店 9/16まで
新宿 紀伊国屋本店 9/16まで
「絶望の国の幸福な若者たち」 ― 2012年08月09日 23:05

若き社会学者、古市憲寿さんによる「絶望の国の幸福な若者たち」、とても興味深く読みました。13歳の娘も盗み読みしていたらしく「これ面白いね」と言っていました。
2010年の時点で20代の70.5%が現在の生活に満足していて、その満足度は他のどの世代よりも高く、過去の20代と比較しても高い、、。格差、貧困、ワーキングプアなどネガティブなワードだけが飛び交う現在の日本の中で、20代の生活における満足度は過去最高という奇妙な状況、これはいったいどういうことなのでしょうか。。
著者自身26歳で「若者」にカテゴライズされやすい年令であるためでしょうか、まずこの言葉の起源や現代での定義を学者らしいアプローチで紐解いて行きます。その中で現代の「若者」という世代で切る群像が既に錆びついたものであること、誰かが「若者」と呼ぶ時にはそれぞれの立場によって期待されるものがあることなどが明示されます。
そして、「ムラムラする若者」という現代のアウトラインを紹介して、若者目線で「日本」を見直していきます。
タイトルもさることながら、本文も冷めた皮肉の語り口がゆるく続くという、ある意味判りやすい若者然とした佇まいですが、その奥に何か光るものを感じ、最後まで興味はつきませんでした。
あちこちに「確かにそうかもなぁ」という所も多く、著者一押しの「ムラムラする若者」のくだりは、現在の「○○離れ」と言われているような消費行動を裏付ける心理としては最も判りやすい説明の一つだと思います。
更に幸福を「経済」と「承認」の二つの要素に分け、食べるものがあって誰かに承認されれば幸福であり、「貧困は未来」「承認は現在」の問題だから、娯楽に満ち気軽に承認が得られる今は「絶望の国の幸福な若者」であるとの断言には頷いてしまいました。
現状を近過去との比較で嘆く大人を冷笑しつつ、冷めた目線でその大人たちの残した社会現状をよしとする若者たちの未来に希望はあるのか、、。著者は控目ながら「なんだか悪いものではない気がしてくる」という一節を終盤に入れていました。
先日の「中国化する日本」とあわせて読むと、大きな流れに飲み込まれる大人の横で、その流れの中をヘラヘラとゆるく笑いながら楽しんでいる風に漂う若者が想起されます。
「一億総若者化の時代」という著者の見方からしますと、どうやら私もヘラヘラ笑っている側のようですね。(笑)
2010年の時点で20代の70.5%が現在の生活に満足していて、その満足度は他のどの世代よりも高く、過去の20代と比較しても高い、、。格差、貧困、ワーキングプアなどネガティブなワードだけが飛び交う現在の日本の中で、20代の生活における満足度は過去最高という奇妙な状況、これはいったいどういうことなのでしょうか。。
著者自身26歳で「若者」にカテゴライズされやすい年令であるためでしょうか、まずこの言葉の起源や現代での定義を学者らしいアプローチで紐解いて行きます。その中で現代の「若者」という世代で切る群像が既に錆びついたものであること、誰かが「若者」と呼ぶ時にはそれぞれの立場によって期待されるものがあることなどが明示されます。
そして、「ムラムラする若者」という現代のアウトラインを紹介して、若者目線で「日本」を見直していきます。
タイトルもさることながら、本文も冷めた皮肉の語り口がゆるく続くという、ある意味判りやすい若者然とした佇まいですが、その奥に何か光るものを感じ、最後まで興味はつきませんでした。
あちこちに「確かにそうかもなぁ」という所も多く、著者一押しの「ムラムラする若者」のくだりは、現在の「○○離れ」と言われているような消費行動を裏付ける心理としては最も判りやすい説明の一つだと思います。
更に幸福を「経済」と「承認」の二つの要素に分け、食べるものがあって誰かに承認されれば幸福であり、「貧困は未来」「承認は現在」の問題だから、娯楽に満ち気軽に承認が得られる今は「絶望の国の幸福な若者」であるとの断言には頷いてしまいました。
現状を近過去との比較で嘆く大人を冷笑しつつ、冷めた目線でその大人たちの残した社会現状をよしとする若者たちの未来に希望はあるのか、、。著者は控目ながら「なんだか悪いものではない気がしてくる」という一節を終盤に入れていました。
先日の「中国化する日本」とあわせて読むと、大きな流れに飲み込まれる大人の横で、その流れの中をヘラヘラとゆるく笑いながら楽しんでいる風に漂う若者が想起されます。
「一億総若者化の時代」という著者の見方からしますと、どうやら私もヘラヘラ笑っている側のようですね。(笑)
気持ちの良い遮断「書き出しで選ぶ100冊」 ― 2012年08月07日 23:51

タイトルも作家も伏せて、「まくら」だけを記した特注のカバーをかけた文庫をさらにビニールで閉じた小説が100冊。
噺家のネタの前の小話もまくらっていいますが、小説の出だしの事ですね。その始まりの数行に感じる何かから本を選ぶ、、いいですねぇ。読書好きらしい感性を感じますね。
出会いのデザインといったら大袈裟ですけれど、活字を読むこと、自分の感覚に委ねること、作家と出会うこと、そして本屋で悩むこと、、これらの書店での楽しい体験がしっかり前面化されています。
いつでも誰とでも繋がれる今は、返って「距離への渇望」が醸成されているという説がありますが、このような「気持ちの良い遮断」は確かに新鮮さと懐かしさがあいまって魅力的です。
そういえば「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」も同じ感覚のような気がします。(ともに未見ですので想像の域ですが)
その気になればスマートフォンで検索すれば作家もタイトルも判るのですが、それさえも「出会うためのひと手間」として利きそうですね。
ぜひ行きたい!ということでご紹介させて頂きます。
紀伊国屋書店新宿本店で9月16日まで。
紀伊国屋書店「ほんのまくらフェアのお知らせ:
http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20120725000000.html
噺家のネタの前の小話もまくらっていいますが、小説の出だしの事ですね。その始まりの数行に感じる何かから本を選ぶ、、いいですねぇ。読書好きらしい感性を感じますね。
出会いのデザインといったら大袈裟ですけれど、活字を読むこと、自分の感覚に委ねること、作家と出会うこと、そして本屋で悩むこと、、これらの書店での楽しい体験がしっかり前面化されています。
いつでも誰とでも繋がれる今は、返って「距離への渇望」が醸成されているという説がありますが、このような「気持ちの良い遮断」は確かに新鮮さと懐かしさがあいまって魅力的です。
そういえば「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」も同じ感覚のような気がします。(ともに未見ですので想像の域ですが)
その気になればスマートフォンで検索すれば作家もタイトルも判るのですが、それさえも「出会うためのひと手間」として利きそうですね。
ぜひ行きたい!ということでご紹介させて頂きます。
紀伊国屋書店新宿本店で9月16日まで。
紀伊国屋書店「ほんのまくらフェアのお知らせ:
http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20120725000000.html
長い江戸時代の終わり「中国化する日本」 ― 2012年07月19日 23:28
與那覇潤(よなはじゅん)著「中国化する日本」です。
引き返しつつ読み続けていまして、現在延べ二回ほど目を通したところです。
長い間私にとりまして近代を知る事が一つのテーマになっているのですが、今まで断片的に集めてきた知識が一つの文脈の中にすとんと収まってしまいました。
あまりに綺麗過ぎますと返って疑わしい、というのは私の穿った見方なのですが、この本が見せている景色はにわかには信じがたいという方もあるかも知れません。それは、そのタイトルが示している「中国化する日本」のことです。
改めと見ますと、やはり挑発的なタイトルですね。
しかし本書内の「中国化」は、中国が領土侵犯したり統治主体が中国と同じになると言う意味ではありません。
ではあえて著者が「中国化」と書いていますのは、「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」への変化のことだそうです。
これは1000年前の「宋」が世界最初の近代だとする歴史観から見た時、近代化とは即ち中国化である、とのこと。
ふむ。つまり日本はまだ近代ではない、という含意があります。本書では日本はまだ「江戸時代」(再江戸時代化された社会)なのだと強く主張しています。
この「今は長い江戸時代の終わり」という指摘が、一つ一つ納得出来てしまうんですよねぇ。
タイトルに含む攻撃性(=問題提起)が語りの随所に表れていて、そこが読みにくいと言えば読みにくいのですが、若い著者が受験用の歴史観から研究者の間での共通理解(と著者の主張する歴史観)へ判りやすい警句を発していると受取りました。
また何度も読み返しそうです。
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