「平成みたい」と令和2024年06月12日 18:21

ジェネレーションギャップにお悩みの皆さまこんにちは^^

先日、「ちょっと古いデジカメがエモい」ということでノキアで写真を撮ったりしました。これをブログに書いた後にコメントを下さる方がいて、(ほぉ、これをこんなふうに思うのか)という発見がありました。こういう実験はいつも面白いです。

貰ったコメントの中でひとつ、私の三女(1999年生)のものを紹介します。

「でも正直、ぱぱとままから送られてくる○○(犬)の画質、いつもちょっと平成みたいだなと思っていた」

これはノキアの写真がいつもの私たちの写真と同じ感じがする、という文脈です。私たちは普段エクスペリアのSO-54C(2022年発売)を使っています。
えー、令和の機材使っても平成って言われちゃうんだ、、と思いました(苦笑

その後、よくよく聞いてみると、だいたい以下のような事だと分かりました。

・エクスペリアの弱点である暗所での写真(室内の料理、夜、黒い犬など)にそれを感じる。
・エクスペリアでなくても暗くて補正してない感じが平成っぽく感じる。
・最近のiPhoneやGoogle Pixelのような、AIで補正以上の生成を行っているコンピュテーショナルフォトグラフィの、明るくて綺麗な画像が普通と思っている。
・ちなみに、もっとあからさまに古いのが昭和。

これは「AI生成を含む写真を標準と感じる」ということですよね。これが「令和っぽさ」なのでしょう。
これは、、大袈裟に言うと、パラダイムシフトが起きているのかもしれません。今後に注目です。

自尊感情と自己評価2024年06月03日 10:22

デザインのダメ出し、するのもされるのも苦手という皆さまこんにちは^^

先日、人事関係の方の話として「叱らない上司」と「叱られるのも学びがないのも嫌という部下」の問題を聞きました。

「叱らない」は「叱れない」も含みますが、パワハラとコンプラと戦力喪失を意識しているのは間違いないでしょう。
一方で「学びがないのが嫌」というのも、分からなくはないですね。成長実感を求めているのは真っ当な態度だと思います。
でも、上司からすると、「叱っても叱らなくてもやめる」という「詰んだ」状態だと。
なので、部隊を動かす上司とコーチを別の人が担当する編成も増えているのだとか。

この話を聞いて思い出したのが、修業時代の上司でした。
今の基準で見たらブラックもブラック、パワハラと人格破壊の刃がフルタイムで突きつけられていました。実際多くの人が辞めて行きましたし、上司自身も去って行きました。
そのような中で、私だけは平気で耐えられた、とは言いませんけれど、何とかしのげたのは「自尊感情」と「自己評価」をたてわける考え方が身に付いていたからです。

たとえばデザインスケッチの出来が良くない時に怒鳴られたり、そのスケッチを破られたり、「だいたいお前は、、」と人格攻撃される訳ですけど、そのことを「デザインへの評価」は受け取って、人格攻撃はできるだけ受け取らないようにしました。(実際は、攻撃が効くこと多数なのですが)

最も怖い反応は「無視」です。デザインした商品が売れない、というのはまさにこれで、悪評が返ってくる方がはるかにいいのです。そのことを前提にすると、私のデザインスケッチの出来の悪さは、改善点がある、と捉えられなくもない、です。

仕事の出来へのコメントと人格攻撃を分けることが大切な事です。
ざっくりと言い換えると「メッセージと感情をわける」ことですね。
これはまあまあしんどい作業ですが、気をつければ出来るようになるものの類いでもあるようです。

感じ良くダメ出しをする、なんて出来るでしょうか。恐らく、出して側だけの努力では難しいかもしれません。
「学びが足りない」と感じてらっしゃるかたはひとつ、「自尊感情」と「自己評価」をたてわけて考えて見る事をおすすめします。

意味の創出2024年05月13日 10:40

デザインで飛躍を企む皆さまこんにちは^^

前回は「問題提起もデザイン」という話をしました。
この視点については、ロベルト・ベルガンティ氏の有名な「デザイン・ドリブン・イノベーション」に説かれる「意味のイノベーション」が正鵠を射ています。(というより、私の話の上位互換です。)

「価値のある意味」
これは私が修業時代、デザインのコンセプトの創出、という命題に日々格闘していた時に得た知見です。「デザインはその商品の意味を作る作業で、それを共有出来る状態に言語化視覚化したものがコンセプト。」そう定義して活動していました。
これは、ブランドの創出にほかならないので、そういうチャンスに恵まれないとなかなか経験出来ないことですが、幸いにも20年以上続くいくつかのブランドの源流を作り出す事が出来ました。(前職の会社名義なのでここでは伏せます。残念。)
これは自慢ではなく、「デザインはその商品の意味を作る」という事を明示して臨む事がどれだけ力強い事か、というお話なのです。

ナラティブ
一つの事象、製品をどう捉えるかで結果がまったく変わってきます。上の「デザイン・ドリブン・イノベーション」には、これも有名なエピソード「ろうそく」の話が載っています。日本の例では、カップヌードルの海外進出の際に「めん類」の棚では全く売れなかったものが「スープ類」の棚に置いたとたんに売れ出したという話がありますね。(こちらも著名事例なのであちこちで紹介されています。)
「私にとって○○は□□だ」という、当事者目線での意味を作ることが肝要と説かれています。
そしてこれは問題提起を含んだデザインそのものでもあります。ですので、意味のイノベーションに悩んだ際は、そこに含まれる問題提起に思いを巡らせて見て下さい。

デザイン:問題提起2024年05月10日 18:09

デザインを何とか手中に収めたいとお考えの皆さまこんばんは^^

前回、「デザインは問題解決」というお話をしました。
これには後日談がありまして、「問題解決がデザインだとすると問題提起はアートである」という論が出てきたんですね。この説は対比としては分かりやすいですし、なるほどと一度は思いました。でも、後日(ちょっと違うかも)と思うようになります。これはアートを観賞したりコレクションしたり、自分でも作ったりして「アートは問題提起の要素はあるかもしれないけれど本質ではない」と感じるようになりました。
ここで、デザインにとって大切なのはアートの定義ではなく、問題解決とセットとなる「問題提起」の方です。これは何だろう、と。

結論で言うとそれもデザインの一部です。既に認識され共有された問題に対する解決策としてのデザインと、解決策を見て初めて「こんな問題があったのか」と気付く、問題提起とセットとなったデザインがあるのですね。

三宅イッセー氏の言葉としてつたえ聞いた事のある言葉なんですが「アートは悲しみも嘆きもするが、デザインはいつも希望を灯すんです(趣意)」と。本当に三宅イッセー氏が言ったかどうかは別として、共感します。問題提起に終わらせず、解決策まで志向すること。これは意志の問題でもあります。

余談。一部の先輩デザイナー方にアートとデザインを対比したがる傾向を感じて、これはコンプレックスの裏返しと思っていました。心の中では冷めた目で見ていた私が、アートとデザインを比較して論じております。あるときコンプレックスは私自身の問題だと気付いたんですね。ですので今はデザインとアートを比較する事に抵抗はありません(笑

デザイン:問題解決2024年05月08日 15:46

デザインがお好きな皆さまこんにちは^^

デザインが「お化粧」ほどの意味合いで、開発の後半に参画するのが一般的だった頃、ある先輩はその現状に憤慨しつつ「デザインは問題解決だ!」と持論を述べたことがあります。私は「デザインは創意工夫すること」という感覚を掴みかけた頃でしたので、この説に共感したのを覚えています。バブル前夜の事でした。

その後CIブームがあったりユニバーサルデザインがあったりデザイン思考があったり、デザインがビジネスと相性がいいことが何度も示されて行きました。デザインがどんなにその範囲を広げても、根本は常に問題解決を志向するからだと思っています。

そして今。この「問題解決」を主軸に見ればデザイナーの仕事は変わりありません。そこに何か問題があるとき、それを「形や仕組みで解決する」のがデザインです。また、そうしようとするのがデザイナーです。

ちなみに、問題を争議として法的に解決(法曹)したり、和解(政治)させたり。身近にも心当たりがございませんか?そう、問題解決全てがデザインではありませんよね。ビジネスでも同じで、その問題の解決にデザインをどの範囲まで及ばせるのかが大事です。そしてこれはトップのみが判断すべき差配なのでした。(重要なので言及しました。)

賞と売り上げ2024年05月06日 10:58

デザインの効果を尋ねあぐねてらっしゃる皆さまこんにちは^^

「デザインは二つしかない。売れるデザインと賞をとるデザイン、そのどちらかだ。」

とある世界的大企業のデザインセンタートップAさんのお言葉です。2000年代、日本のメーカーは「売れるけどかっこ悪い」というレッテルを嫌い、日本のデザインが世界トップクラスにある事を、各国のデザイン賞をとる事で証明しようとしていました。実際、多くの日本製品が賞をとり、日本のデザインが垢抜けないとは言われなくなりました。

Aさんはまさにその頃、日常的に「売れるデザイン」と「賞をとるデザイン」の両方をディレクションされていた方です。Aさんには開業時に大変お世話になったのですが、この言葉を正面から言われた時はちょっと戸惑いました。(賞をとってその上売れるのが良いのでは?)と思ったからです。
しかしAさんと仕事をさせて頂く中で、Aさんの認識の方が正しいと思い直しました。当時の賞をとるようなデザインは、日本ではうけなかったからです。(「MAYA段階」参照)
これは「レースで優勝して量産車を売る自動車メーカーのようなものだ」、と独り言ちた事を覚えています。

時間が経って、、。
Aさんはメーカーのブランドイメージ向上と売り上げの確保という命題と当時の市場環境を鑑みて、シンプルな2方向のディレクションにまとめられていた、と拝する事が出来ます。

今「日本でデザインする」そのことの立ち位置はどのあたりでしょうかね。
賞か売り上げかはいずれにせよ、デザインは使用者の立場に立ってするものです。使用者目線でどうあればよいのか、その主軸がはっきりしていれば見えてくるものなのです。(詳しくはご相談ください^^)

MAYA段階:受け入れられる革新とは2024年05月01日 10:24

デザインの革新性におなやみの皆さまこんにちは!

20世紀のアメリカンデザインの巨匠「レイモンド・ローウィ」氏のデザインは、その名を知らなくても、流線型の機関車やピース(たばこ)をご存知の方は多いでしょう。
ローウィ氏は徹底して「売れるデザイン」を求めました。そして1940年頃発見したという肝要が「MAYA段階」です。

MAYAはMost Advanced Yet Acceptable(最も革新的だが受け入れられる)の頭文字をとったものです。
消費者の先進的なものへの憧れと未知への恐怖のぎりぎりのところ、そこが「売れる」のだと。この理論は画期的で理解も実践もしやすいため広く受け入れられたようです。
(過去形で書きましたが、今でも基本のキに違いありません)

昨年のAIショックではその革新性が驚きと共に受け入れられました。AIの技術自体はもっと以前からあり、完成度の低さとその危険性から一部の開発者のものに留められていたそうです。そして、今急速に普及しているAIも完成度はそれほど変わらないとも。これは興味深い事例だと思います。
AIにおいては、Chatというあり方が「受け入れられる形」でしたね。(そして、「言葉遣いのうまさ」が「情報の信頼度」に勝るという、誰もが薄々感じて居たことが明確に追認されました。余談です。)

AIの受け入れられ方をみて思い出す事例が二つあります。LINEとパズドラです。
LINEは後発のチャットアプリでしたが、そのレスポンス抜群のUIの使い心地が他を圧倒しました。
パズドラはスマホのゲームで、並んだコマをなぞって消すパズルゲームと対戦ゲームを合わせたものです。こちらも多数ある同種の中から「なぞって消す楽しさ」が群を抜いていました。
どちらも、UIの使い心地が支持を受けるかどうかの分かれ目になりました。

AIに話を戻しますと、「言葉遣いの上手さ」は使い心地の肝ですね。
テクノロジーが前面化したいまは、「使い心地」がMAYA段階に達する手段となっているのだと思います。

MAYAのイメージ
AIが描いた「MAYA段階」のイメージ

シンプルというより、「ピュア」2024年04月29日 10:31

使いやすくて魅力的なデザインを企む皆さまこんにちは^^

以前、「シンプルなデザインにも攻めと守りの二通りある」というお話をしました。
守備的に多くの人の支持を得ようとするスタンスと、メッセージとを単純にして積極的に伝えて行こうとするスタンスです。
そして、攻めと守りを行き来しながら、多くの方に受け入れられる特徴のはっきり伝わる形を求めて行くのですね。

こうして出来上がった「シンプル」が、ありふれた「シンプル」と一線を画す個性を獲得します。この違いについては、現場でも何度も議論してきました。両者が違うことはたやすく共有出来ます。ただ、時間の経過と共にぼやける事もしばしば。言葉が同じだからかもしれません。

そこで、このつき詰めたシンプルを「ピュア」と呼ぶ事にしました。これはアルマーニ氏が使っていたワードから頂いたものです。

いま開発されてる製品を「ピュアなものにする」。より研ぎ澄まされた印象を共有出来たら嬉しいです。
ぜひ「ピュア」を目指してみてください。

デザイン・生活2024年04月19日 18:40

ジョルジオ・アルマーニ
デザインがお好きな皆さまこんにちは^^

先人の言葉をもうひとつ。

「デザインは生活のためのものだ。この点だけは絶対に譲るつもりはない。」ジョルジオ・アルマーニ

これはNewsWeekに掲載された、インタビュー「美は東洋にあり、だ」を締めくくる言葉でした。
インタビューでは東洋の生活様式の知恵、ミニマリズム、洗練されたデザインの製品は全て極東で作られているみこと、東洋ではデザインが日常生活に溶け込んでいるなど、東洋への憧れを隠さず語っています。

アルマーニのスーツはバブル世代のアイコンのひとつだったので、バブル的な高額高付加価値なイメージを持っていましたので、ちょっと新鮮な印象だった記憶があります。
でも仰ってることはすっと入ってきました。
そう、「デザインは生活のためにある」、です。

話とびますが、アップルのスティーブ・ジョブズがソニーに憧れ、日本を愛し、日本の美を標榜していた話は有名ですよね。アップルは普通の人向けにコンビューターを作ったことが革新的でした。普通の人向けだからこそデザインが大切なのだ、ということを強く行動で示し続けた方でした。
ここでの「普通の人」は、アルマーニ氏における「生活する者」に類すると思います。

この二例から結論を出すのは拙速ですが、日本的な美意識が共鳴する方向性というものを感じてしまいます。シンプルで便利で合理的な生活、といいましょうか。(アルマーニ氏は「ピュア」を使っていました。)

アルマーニ氏は冒頭の言葉の前に、若手デザイナーに言いたい事としてこう仰っていました。

「デザイナーの仕事はサービスを提供することであり、今まで誰もやっていないことをやってみせることじゃない。誰もやっていないとしたら、やる必要がなかったからだ。そんなものを作っても、デザイナーの自己顕示欲を満足させるだけで、役には立たない。」

ぶった切ってますね。
私はこの怒気を含んだメッセージに心強さを覚えたものでした。

「デザインは生活のためにある」
今も大切にしています。

詩・デザイン2024年04月17日 12:39

デザインがお好きな皆さまこんにちは^^

前回は「デザインとは何か」という問いについて、そのきっかけや現在の答についてお話しました。もう一度先人たちの言葉をなぞろう、と申しました通り、いくつか記憶に残っているものをあげて行こうと思います。

「デザインとは詩である」マリオ・ベリーニ(伝)wiki

(伝)と付けましたのは、原典が分からないためです。修業時代の最初の上司が教えてくれました。ところが私は全くといっていいほど詩を解せなかったため、(かっこいい言い回しだな、、)以上の感想は持てませんでした。ただ確かに、ベリーニ氏によってデザインされた家具や装置を並べた空間にいる中で、「デザインは詩だ」といわれたら、なんとなく(そうかも)と思える気もしました。造形の魅力のなせる技でしょう。

マリオ・ベリー二 カッシーナより

のちに実際にさわる機会があり、ちょっと印象が変わりました。この椅子はこうあるべき、この装置はこう使うべき、という明快で美しいビジョンがあるのです。これは本当に凄い事です。天才の仕事だな、と感服します。デザイナーが「作品」で表す世界、それが「詩」なのだ、と腑に落ちたのです。

しかし、この「美しい所作への意識」が、私には重く感じられました。否定的に言うと、親切ではないんです。(当時の90年代の時代感もあってそう感じたかもしれません。)
私という人間は「美しいけれど親切ではないものは嫌だ」と思うのだ、と気付く貴重な体験でした。そうして私は、「美しいことが親切であることを犠牲にしない」という指針を得たのでありました。

ちなみに、前後して「CI」等の「ブランドの世界観」を表すことがデザインの仕事としても目立ってきます。デザイナーが世界観を作ろうと思う時、「デザインは詩である」という視点はとても使いやすいメタファーだったでしょう。流石です。
dmc.
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