「わからない」って凄いんだぜ ― 2020年06月03日 09:45
4月の終わり頃の私の感想をメモ。長いです。
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「正しく恐れる」「科学的に正しい態度をもって」と、聞くとそこには「正解」があるように感じます。正解があるからそれを確認してそれを実行するべきだ、と。
そしてテレビやネットや新聞や近所の物知りから「こうするのがいいのよ」と「正解」が提示される。そしてその「正解」は一つではないことに戸惑い、苛立つ。「正解」は一つでないと気が休まらないからですね。
やがて沢山あった「正解」はいくつかに収斂していくので、ますます「正しく」思えてくる。私は正しかったと、もしくは私は間違っていたけど正しいことに気付いて良かったと。
厄介なのは一つを選ぶと他が「もうひとつの正解」でも「次善の策」でもなく、「悪」であると感じてしまうこと。これが分断のもとであると感じます。
台湾はうまくやっているのは事実だけれどそこに普遍性(どこでも通用すること)はあるのかしら。スウェーデンは「エビデンスベース」だけど政治にエビデンスなんてあったかしら。台湾はSARSの経験を生かしているので見習うべきところは沢山あるはずですし、スウェーデンが「確認された事実だけに基づく施策に効果があるか」を命がけで試していることに深い敬意を持ちますけれど、それを「正解」とするのはまた別の話。
話は飛びますが、私は修業時代に心身を病んで会社に行けない時期がありました。「会社いやいや病」と自嘲ぎみに言っておりましたけれど、その時はあちこちの病院にかかったんですね。複数の病院で「どこかに炎症がある」といわれ精密検査、そしていつも異常なし。精神的なものも疑いましたがそれではない、とも。
「今私がかかっている病はなんなんだ」という不安を抱えクリニックジプシーになったのですが、ある病院の若い女医さんの一言ですとっと楽になったのです。それは「今の私にはわかりません。ごめんなさい。」でした。
当時流行していた「疲労病」のようなものも含めて色々と調べてくださって、その上で「わからない」と。無責任にも聞こえるこの一言にとても誠実なものを感じました。
この誠実さって、後で耳にするようになった「科学的に正しい態度」なのでは?と今では思います。
例えば、大切な人が目の前で苦しみだしたらその人がなぜ苦しいのか聞きます。そして出来ることを何かします。様子を見てその時とれる最善の行動をとります。それが後で悪手だったとわかったら最悪です。でもその時はそれが正しかった、仕方なかったと思い切るしかない、そして知識を更新するしかない。(苦しみは癒えませんが)
知識は大切で常に最新であるべきということと、いつそれが間違いに変わるかわからない、ということはセットなんです。知識が真逆になることもしばしば。珈琲などはわかりやすい例じゃないでしょうか。
コロナってまだ新参者で素性がよくわかってないですよね。
「わからない」「正体不明」「無知」
無知の知ってソクラテスでしたね?
知らないことを自覚する、という態度が後々の学問には引き継がれていると思います。だって、研究者って「ここがわかってないんだよぉ」って目をキラキラさせていうじゃないですか。(予算採るためにいかにも知ってますわかりますと振る舞うことも必要でしょうけれど。余談)
「知らない何か」に対処するって、まずその「知らなさ」を飲み込むことだと思うんです。わかっていることからは答えが見つからないかも知れない、という認知ですね。
ですから「何がわかっていないかに興味を持つ」はとても大切だと思うのですね。そうしないと知識がアップデートされません。
話をまたシフトします。
私が今立たされている苦境は何なのか、どんな意味があるのか。。大げさではありますが、「説明の出来ないこと」を自分ごととして飲み込むのが人生の大きなことの一つと思います。
もう少し砕きますと、原因はわからないけれど結果は厳然とある。これを引き受けないと始まらない、ということ。
そして、結果だけを引き受けることはできなくて「わからなさ」も引き受けざるを得ない。
さて、これをどうしたものか、、。あなたが何かを信仰していらっしゃればその深みに触れる機会になるでしょう。もしくは退転していくもしれません。
そこまでではないにしても、説明が欲しくなる。ある説明を安易に「正解としてしまううかつさ」がここにあると思います。(ここに悪意がつけこむ要素がありますね。これも余談)
ここでも、「無知に興味を持つ」という態度が、そのうかつさを抑えてくれると思うのです。
結論:「わからない」って凄いんだぜ。
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このメモを書いてひと月以上経ちましたが、沢山の事実が確認されて参りました。それらをアップデートしながら「ニューノーマル」な世界に向かって大きく動き出す響きを感じます。私自身も「わからない」をどんどん更新していきながら、その中に勇んで参る所存です。
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「正しく恐れる」「科学的に正しい態度をもって」と、聞くとそこには「正解」があるように感じます。正解があるからそれを確認してそれを実行するべきだ、と。
そしてテレビやネットや新聞や近所の物知りから「こうするのがいいのよ」と「正解」が提示される。そしてその「正解」は一つではないことに戸惑い、苛立つ。「正解」は一つでないと気が休まらないからですね。
やがて沢山あった「正解」はいくつかに収斂していくので、ますます「正しく」思えてくる。私は正しかったと、もしくは私は間違っていたけど正しいことに気付いて良かったと。
厄介なのは一つを選ぶと他が「もうひとつの正解」でも「次善の策」でもなく、「悪」であると感じてしまうこと。これが分断のもとであると感じます。
台湾はうまくやっているのは事実だけれどそこに普遍性(どこでも通用すること)はあるのかしら。スウェーデンは「エビデンスベース」だけど政治にエビデンスなんてあったかしら。台湾はSARSの経験を生かしているので見習うべきところは沢山あるはずですし、スウェーデンが「確認された事実だけに基づく施策に効果があるか」を命がけで試していることに深い敬意を持ちますけれど、それを「正解」とするのはまた別の話。
話は飛びますが、私は修業時代に心身を病んで会社に行けない時期がありました。「会社いやいや病」と自嘲ぎみに言っておりましたけれど、その時はあちこちの病院にかかったんですね。複数の病院で「どこかに炎症がある」といわれ精密検査、そしていつも異常なし。精神的なものも疑いましたがそれではない、とも。
「今私がかかっている病はなんなんだ」という不安を抱えクリニックジプシーになったのですが、ある病院の若い女医さんの一言ですとっと楽になったのです。それは「今の私にはわかりません。ごめんなさい。」でした。
当時流行していた「疲労病」のようなものも含めて色々と調べてくださって、その上で「わからない」と。無責任にも聞こえるこの一言にとても誠実なものを感じました。
この誠実さって、後で耳にするようになった「科学的に正しい態度」なのでは?と今では思います。
例えば、大切な人が目の前で苦しみだしたらその人がなぜ苦しいのか聞きます。そして出来ることを何かします。様子を見てその時とれる最善の行動をとります。それが後で悪手だったとわかったら最悪です。でもその時はそれが正しかった、仕方なかったと思い切るしかない、そして知識を更新するしかない。(苦しみは癒えませんが)
知識は大切で常に最新であるべきということと、いつそれが間違いに変わるかわからない、ということはセットなんです。知識が真逆になることもしばしば。珈琲などはわかりやすい例じゃないでしょうか。
コロナってまだ新参者で素性がよくわかってないですよね。
「わからない」「正体不明」「無知」
無知の知ってソクラテスでしたね?
知らないことを自覚する、という態度が後々の学問には引き継がれていると思います。だって、研究者って「ここがわかってないんだよぉ」って目をキラキラさせていうじゃないですか。(予算採るためにいかにも知ってますわかりますと振る舞うことも必要でしょうけれど。余談)
「知らない何か」に対処するって、まずその「知らなさ」を飲み込むことだと思うんです。わかっていることからは答えが見つからないかも知れない、という認知ですね。
ですから「何がわかっていないかに興味を持つ」はとても大切だと思うのですね。そうしないと知識がアップデートされません。
話をまたシフトします。
私が今立たされている苦境は何なのか、どんな意味があるのか。。大げさではありますが、「説明の出来ないこと」を自分ごととして飲み込むのが人生の大きなことの一つと思います。
もう少し砕きますと、原因はわからないけれど結果は厳然とある。これを引き受けないと始まらない、ということ。
そして、結果だけを引き受けることはできなくて「わからなさ」も引き受けざるを得ない。
さて、これをどうしたものか、、。あなたが何かを信仰していらっしゃればその深みに触れる機会になるでしょう。もしくは退転していくもしれません。
そこまでではないにしても、説明が欲しくなる。ある説明を安易に「正解としてしまううかつさ」がここにあると思います。(ここに悪意がつけこむ要素がありますね。これも余談)
ここでも、「無知に興味を持つ」という態度が、そのうかつさを抑えてくれると思うのです。
結論:「わからない」って凄いんだぜ。
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このメモを書いてひと月以上経ちましたが、沢山の事実が確認されて参りました。それらをアップデートしながら「ニューノーマル」な世界に向かって大きく動き出す響きを感じます。私自身も「わからない」をどんどん更新していきながら、その中に勇んで参る所存です。
「空気が作れる人」になろう ― 2014年01月14日 22:42
空気を読むことの良さと悪さ、共に色々な意見があり、それぞれ頷くものがあります。
だけど、「空気」をよむだけでも壊しても前に進まないなぁ、という状況も多いのかな、なんて思います。
そもそも空気と呼ばれるものは、そこに参加する方々の共通認識(=「個別の前提を積み上げた文脈」)と、それに合わせた方が良いという風潮(=「同調圧力」)に分けられそうですが、文脈を読んだ上で同調しない、という振る舞いがあってもよさそうですよね。
そこで、ご相談です。空気を読んで下さる方はたくさんいらっしゃるので、私たちはその空気を作ったらいかがでしょう。
結果的にそれまでの空気を壊すことになると思いますが、新鮮な空気は気分を変え、新たな息吹となってくれるに違いありません。
デザインとは、既存のモノをくささずに新しいモノを提案することを得意とするわけですから、「空気を作りたくなった」方は、こっそりご相談下さいませ。
(宣伝になってしまいました・笑)
だけど、「空気」をよむだけでも壊しても前に進まないなぁ、という状況も多いのかな、なんて思います。
そもそも空気と呼ばれるものは、そこに参加する方々の共通認識(=「個別の前提を積み上げた文脈」)と、それに合わせた方が良いという風潮(=「同調圧力」)に分けられそうですが、文脈を読んだ上で同調しない、という振る舞いがあってもよさそうですよね。
そこで、ご相談です。空気を読んで下さる方はたくさんいらっしゃるので、私たちはその空気を作ったらいかがでしょう。
結果的にそれまでの空気を壊すことになると思いますが、新鮮な空気は気分を変え、新たな息吹となってくれるに違いありません。
デザインとは、既存のモノをくささずに新しいモノを提案することを得意とするわけですから、「空気を作りたくなった」方は、こっそりご相談下さいませ。
(宣伝になってしまいました・笑)
売り口上 ― 2014年01月08日 10:18
毎年末、何かきれいなものを求めておりますが、今年も昨年に引続き小さなクリスタルを手にとりました。
その時ちょっと気になりましたのが、「こちらは幸運の○○」「来年のラッキーカラーの○○」という売り口上です。
以前から増えたなぁ、とは思っていたのですが、高額消費財の売り場にも遂に進出したのですねぇ。
商品への直接的な言及は、そのままでは売れないということを暗示しています。(それでも売れることが正義であるチャンネルはありますし、売れる売れないではなく売るのが商だ、という姿勢にも共感しますけれど)
こういう口上を慎重に排除する事がブランドを高めるものだと言う考えでは売れないのかもしれませんが、ちょっと残念な気持ちになりました。
今風に言えば「接続価値」の繋ぎどころに違和感を感じたのかも、、と思い返しますと、他のブランドもそちらの方(自己言及による神秘性の獲得)に舵を切っている時代なのかもしれません。
その時ちょっと気になりましたのが、「こちらは幸運の○○」「来年のラッキーカラーの○○」という売り口上です。
以前から増えたなぁ、とは思っていたのですが、高額消費財の売り場にも遂に進出したのですねぇ。
商品への直接的な言及は、そのままでは売れないということを暗示しています。(それでも売れることが正義であるチャンネルはありますし、売れる売れないではなく売るのが商だ、という姿勢にも共感しますけれど)
こういう口上を慎重に排除する事がブランドを高めるものだと言う考えでは売れないのかもしれませんが、ちょっと残念な気持ちになりました。
今風に言えば「接続価値」の繋ぎどころに違和感を感じたのかも、、と思い返しますと、他のブランドもそちらの方(自己言及による神秘性の獲得)に舵を切っている時代なのかもしれません。
創意工夫 ― 2013年12月27日 22:36
デザインとは何か?
学生時代、これを問われて即答できずにいた私に教授は「明確な定義はなかなかない。これを追いかけている。」とおっしゃいました。以来私も同じ謎に親しんでおります。
「デザイン」の響きがイメージさせるものは人によって異なります。アポロ計画で「デザイン」を知った方にとっては計画であり、スーパーカーに憧れた方にとってはスタイリングであり、雑貨や文具が好きな方にはアイデアであり、おしゃれな方にはファッションであり、ガジェット好きにはUIのスマートさかもしれません。
それだけデザインの範囲が多様だからでありますし、デザインの価値が発揮される場面が異なるからでもあります。
私はいつも「デザインは贈り物」だと感じており、またそのようにさせる実践論としては「創意工夫」だと思いいます。
誰かを喜ばせるために一生懸命工夫する。創意を凝らす。
こんな当たり前のようなことだけど、とても難しくてやりがいのあること、それがデザインなのだろうと思います。
さて、弊社は明日よりお休みを頂き、新年は6日より営業開始いたします。
みなさまにとりまして、ますます拓ける素晴らしい新年が訪れますよう心よりお祈り申し上げます。
学生時代、これを問われて即答できずにいた私に教授は「明確な定義はなかなかない。これを追いかけている。」とおっしゃいました。以来私も同じ謎に親しんでおります。
「デザイン」の響きがイメージさせるものは人によって異なります。アポロ計画で「デザイン」を知った方にとっては計画であり、スーパーカーに憧れた方にとってはスタイリングであり、雑貨や文具が好きな方にはアイデアであり、おしゃれな方にはファッションであり、ガジェット好きにはUIのスマートさかもしれません。
それだけデザインの範囲が多様だからでありますし、デザインの価値が発揮される場面が異なるからでもあります。
私はいつも「デザインは贈り物」だと感じており、またそのようにさせる実践論としては「創意工夫」だと思いいます。
誰かを喜ばせるために一生懸命工夫する。創意を凝らす。
こんな当たり前のようなことだけど、とても難しくてやりがいのあること、それがデザインなのだろうと思います。
さて、弊社は明日よりお休みを頂き、新年は6日より営業開始いたします。
みなさまにとりまして、ますます拓ける素晴らしい新年が訪れますよう心よりお祈り申し上げます。
軽さは正義2 高橋工芸のマグ ― 2013年10月29日 15:31
以前、曲げわっぱのカップをご紹介しましたが、軽量木製のカップということで、もうひとつこちらをご紹介いたします。
高橋工芸「Kami マグカップ」、素材は栓(せん)で、49グラムと軽いです。
把っ手部分は貼りです。
曲げわっぱの杉の香りは暖かいものを飲むのに向いていませんでしたが、こちらは主張が弱く気になりません。母(89歳)はお茶を飲むのにもこちらを好んで使うようになりました。
伝統工芸+デザイナーの、奇を衒わない良いもの。好きです。
過去記事:軽さは正義 栗久のリングカップ
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