幸せのパラドックス2025年03月10日 18:50

みなさまこんにちは^^

気になる論文「Happiness depletes me: Seeking happiness impairs limited resources and self-regulation(幸福は私を枯渇させる: 幸福を求めると、限られた資源と自己規制が損なわれる)」があったので、AI(今回はGrok3)に要約してもらいました。(文末に全文引用)

幸せを求めると自己コントロールのリソースが消耗してかえって不幸になる行動をとりやすい。かわりに、自然に幸福を受け入れる態度の方が良い、ですって。
これは幸せというものの性質をちゃんと表しているなと思いました。
努力の報酬が「幸不幸」を決すると考えると、結果が出なければ全て不幸になります。つきつめれば、人生全勝でなければ不幸になる、という考え方です。考え方というより、感じ方ですね。「成功=幸せ」というマインドセットです。

ただ、成功してる方が失敗してるより幸福を感じやすいのも事実ですから、成功を求めるのは悪くないと思います。
成功を求めて行動し、その過程で気付いた幸せを受け入れる、というエピソードはどなたも身近にみつけられるでしょう。

山本周五郎の短編「橋の下」に、

ーー怒りや悲しみや、苦しみさえも、いいものですーー

という一文があります。これが「自然に幸福を受け入れる態度」ですね。

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サイトの翻訳と要約
指定されたURL(https://iaap-journals.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/aphw.70000)は、Wiley Online Libraryに掲載されている学術論文で、タイトルは「Happiness depletes me: Seeking happiness impairs limited resources and self‐regulation」(「幸福は私を消耗させる:幸福を求めることは限られた資源と自己調整を損なう」)です。著者はKimらで、2025年1月30日に公開されました。この論文は、幸福を追求することのパラドックスに焦点を当てています。
翻訳された要約(アブストラクトの一部)
人はポジティブな感情を最大限に経験し、ネガティブな感情を最小限に抑えようとすることで幸福を求めます。しかし、幸福を求めることは、より多くの幸福をもたらすどころか、幸福の減少や時間の喪失といったネガティブな結果を招くことが研究で示されています。本研究では、幸福を追求することが自己調整能力の消耗につながるかどうかを検証しました。結果として、幸福を求める傾向が高い人は自己調整能力が低下し(研究1・2)、幸福を意識的に追求する状況では自己コントロールの失敗やタスクの持続性が低下することが分かりました(研究3・4)。

端的な要約
この論文は、「幸福を追い求めると逆に不幸になりやすい」という逆説を検証し、幸福を意識的に追求することで自己コントロールや精神的なリソースが消耗し、結果的に我慢や努力が難しくなることを示しています。
分かりやすい解説
主なポイント
幸福のパラドックスとは?
人は「幸せになりたい」と強く思うほど、それを追い求める行為自体がストレスや疲れを引き起こし、逆に幸福感を減らしてしまうことがあります。これは「幸福のパラドックス」と呼ばれます。

例: 「毎日笑顔でいよう」と頑張りすぎると、疲れてしまって逆にイライラが増えるような状況です。

自己調整(セルフコントロール)の消耗
自己調整とは、衝動を抑えたり、目標に向かって努力を続ける能力のこと(例: ダイエット中に甘いものを我慢する)。

研究では、幸福を強く意識すると、この自己調整に必要な精神的なエネルギーが減り、例えば難しい課題を続ける力が弱まったり、誘惑に負けやすくなることが分かりました。

実験で何が分かったか
研究1・2: 幸福を重視する性格の人は、普段の生活で自己コントロールが弱い傾向がある。

研究3・4: 「今から幸せになろう」と考えると、普通の状態や「正確にやろう」と考える場合に比べて、我慢や努力が減る。

身近な例で考える
「毎日ポジティブでいよう」と決意した人が、失敗した時に「自分はダメだ」と落ち込むことがあります。この論文は、そうやって「幸せを無理に追いかける」ことが、かえって心の余裕を奪うと説明しています。

逆に、幸福を自然に受け入れる姿勢の方が、ストレスが少なく自己コントロールも保ちやすいのかもしれません。

結論
幸福を追い求めるのは悪いことではないけれど、「頑張って幸せになろう」としすぎると、心が疲れて逆効果になる可能性があるよ、というのがこの論文のメッセージです。リラックスして自然に楽しむ方が、結果的に幸せに近づけるのかもね、という視点を提供しています。

メンタルモデルのくみあわせ 創作日中共通語2025年03月03日 10:10

みなさまこんにちは^^


中国語話者と日本語話者がともに使える言語

漢字の単語を英語の文法に混ぜて使うと、中国語話者と日本語話者がともに使える言語になる、という提案です。日中どちらの話者も、専門的な話をするほど相手言語も英語も出来ないけれど、漢字の意味は汲み取れるから英語の基本が分かれば通じるという。面白いこと考えますね!
最初から英語で話せばいいじゃないか、という話ですが、英語力はそこそこでいい、というのが味噌なんでしょう。

機器のUIデザインは、使用者の経験してイメージが出来ている操作モデル(メンタルモデル)に沿うようにデザインします。こある製品の操作が、一つのメンタルモデルだけではカバー出来なくても、いくつかのメンタルモデルをくみあわせればカバー出来そうな場合、とても有効な手段です。冒頭の投稿はのことを思いです話でした。

この時大切なのは使用者の供えているメンタルモデルを良く吟味することです。ここに成否の鍵があることは言うまでもないですね^^

「ていねいな暮らし」と聖域2025年02月24日 10:43

ミチクサの正月飾り
みなさまこんにちは^^

前回は「ていねいな暮らし」というワードに対する両極端なイメージについてお話ししました。
私はデザイナーとして、「ていねいな暮らし」の指ししめすイメージと、実感としての「ていねいに暮らす楽しさ」の両方を思い浮かべます。
前者はスタイリングパターンとして、後者は生活実践の態度として、です。

コーヒーをハンドドリップで淹れる、レコードで音楽を聴く、窓辺で本を読む。これらのシーンに「ていねいな暮らし」というワードを被せるとある一定のイメージが湧くのではないでしょうか?それが「スタイリングパターンとしてのていねいな暮らし」。

一方で、スタイリングパターンと関係なく、コーヒーや音楽を大切に楽しんでいる人も沢山いらっしゃる。これが「生活態度としてのていねいな暮らし」。

「ていねいな暮らし」に嫌悪感のある方は、イメージにも生活態度にも嫌悪感があるよう(前記事参照)です。
それでも
ですので、スタイリングパターンとしてではなく、生活態度としてていねいな暮らしを取り入れるられたらいいな、と思います。自分の生活を大事にした方が自己肯定感も自尊感情もあがりますので。

「そんな余裕はない」とおっしゃらずに、15cmの聖域から始めてみるのはいかがですか、というお話しです。

話飛びますが、片づけのプロが教えるコツとして「綺麗な場所とぐしゃぐしゃでいい場所を作って、綺麗なところはそれをキープして、片づかないものはぐしゃぐしゃの場所に移動する」というのを実効性のある対策としておすすめしていました。
これは、お子さんにおかたづけを教える方法として知られた方法です。部屋全部ではなく、決めた範囲を綺麗にすることから始めれば楽しみながら片づけられるようになる、と。
この方法、私も効果を実感しました。昨年引っ越したんですが、くつろぐ場所を決めて、そこだけは綺麗にキープするようにしたんですね。そうするとまずQOLが爆上がりします。帰ってきた時に片づいた空間があってそこで一息つくことの癒やし効果は絶大なものがあります。また、荷物などは雑然としていいところに置けばいいのでいらいらしません。
そしてその気持ちよさを知ると、ぐしゃぐしゃの場所も自然と片づいて行くようになります。大人でも効果絶大でした。

これは、「聖域」とか「祭壇」とか呼ばれるものを生活に持ち込む効果そのものだと思います。

「ていねいな暮らし」の「ていねい」をもう少し細かくみますと、「手順を守る」と「心を込める」の二つがあるのがわかります。「心を込める」は「気持ちが行き届いている」とか「心を配る」とかでもあてはまります。
そこだけは趣味全開な場所を「聖域」、推しグッズを並べた場所を「祭壇」と一部で呼ぶそうですね。
心がこもった空間を持つことの喜びが、「ていねいな暮らし」の根っこなんだろうと思います。

写真は窓辺に飾った正月飾り。
引っ越しの荷物で埋まった空間を浄化してくれる感じがしました。

「ていねいな暮らし」のもやもや2025年02月19日 18:20

みなさまこんにちは^^

デザインでは人の暮らし、生活を知ることが大前提ですし、実際の現場でも「どんな暮らしぶりか」を無視した開発はありません。そこで、様々な暮らしぶりをあらわすワードが扱われるのですが、「ていねいな暮らし」は、憧れるひとつの理想像である一方、嫌悪感を隠さない方もいらして、ちょっとセンシィティブなワードです。
私自身、どちらの気持ちも分かるような気がしますし、同時に両者の和解は難しそう、、とも感じていました。この私が感じたことを基に、AIたちにサーチしてまとめてもらいました。*

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要点まとめ:「丁寧な暮らし」イメージ調査と嫌悪心理構造

1)「丁寧な暮らし」とは

時間をかけ、手作り、自然、シンプルさ、五感、持続可能性、健康、精神的豊かさを重視するライフスタイル。

2)3つの視点からの評価とイメージ

・ポジティブ評価: 
理想的なライフスタイル、自己肯定感向上、ストレス軽減、創造性発揮、社会貢献、洗練されたイメージ。実践者は豊かで充実した人生を目指す。
・どちらでもない評価: 
ライフスタイルの一つとして捉え、関心はあるが実践は難しい。流行やイメージ先行も指摘。部分的に取り入れる人も。
・ネガティブ評価:
偽善的、押し付けがましい、特権階級の贅沢、手間がかかる、自己満足・承認欲求、ストイックすぎる、情報過多で疲れる、田舎暮らし礼賛など。反発・嫌悪感を抱く人も。

3)「丁寧な暮らしが好きな人」を嫌う心理構造(主な要因)

・妬み・嫉妬: 持っていないものを持っている人への感情。SNSでのキラキラした発信で増幅されやすい。
・劣等感・脅威: できていないことを突きつけられる感覚、自身のライフスタイル否定への脅威。
・反発心・抵抗: 押し付けがましい、道徳的優位性への反発。啓蒙されているように感じる場合に強まる。
・自己防衛: 自身のライフスタイル正当化。「丁寧な暮らし」否定で心の平穏を保つ。
・情報過多による疲弊: 情報過多、理想と現実のギャップ、画一的な価値観への嫌気。
・完璧主義への嫌悪: 完璧さを求めすぎる姿勢への息苦しさ、人間味の欠如への嫌悪感。

4)結論

「丁寧な暮らし」への評価は多岐にわたる。嫌悪心理は、理想と現実のギャップ、価値観の多様性、情報過多社会の疲弊、完璧主義への反感など、現代社会の課題を反映している。

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「ていねいな暮らし」に象徴される理想像としての暮らしは、ひとつの理想像にすぎないと言えますが、それを理想とすることへの嫌悪が際立っている(上記3)のが特徴といえそうです。
アメリカに端を発する反DEI**(Diversity, Equity, and Inclusion:多様性・公平性・包括性)の雰囲気(いわく「逆差別」や「特定の価値観の強制」など)にちょっと似ているな、と感じたりもします。ふむ。

アメリカ大統領は就任に際して聖書に宣誓しますけれども、大国のエゴイズムをむき出しにする新帝国主義による「黄金時代」に進み始めました。キリスト教的な善悪規範、美意識(大罪とか真善美とか)の形骸化がどんどん可視化されてきていますね。
日本も日本的な美意識は依然としてありますが、形骸化している例も目立つようになりました。(「忖度」ってもともとは言い意味だったはず、、とか)

(つづく

*)ChatGPT 4oとGemini 2.0 Flash Thinking Experimentalの2者の推論を再度Gemini 2.0 Flash Thinking Experimentalにまとめてもらいました。

**)巨大テック企業が反DEIに舵を切りましたけれど、大多数の企業が追従には慎重、もしくはDEI推進派です。

アート・デザイン・ライフ・ビジネス2025年02月17日 10:44

アート・デザイン・ライフ・ビジネス
みなさまこんにちは^^

アートとデザインについてお話しを拡げてきました。今日はざっくりとまとめたいと思います。

石器のお話を続けますと、まず石器を工夫する(デザイン)と生活が変わってきますね。
例えば、、
・作業が効率的になる → 空いた時間に別のことをする
・作業が楽になる → その作業をする人が変わる(成人男性から子供など)

生活が変わってくると、またあらたな工夫(デザイン)が生まれます。上の例では、空いた時間にするようになったことの道具が生まれたり、スペースが作られたりします。

このように創意工夫と生活は一体でした。デザインは最初からライフスタイルに直結していた、と言えます。

話を現代にうつしますと、「デザイン」「デザイナー」には職業のイメージが強いです。これは近代の大量生産品の普及にあわせて「デザイン」が広く定義、認知された*からですね。

この広く使われて行く過程は石器時代にもありました。交易です。
文明は遊牧民と農耕民の交わるところで発祥しました。文明以前にも人々は交易し、お互いの生活の部分と部分を交換していました。これは生業(なりわい)と呼ばれるものでしょう。ビジネスです。

アート  ・・・ 割れた石を知る(価値)
デザイン ・・・ 石に取っ手をつける(工夫)
ライフ  ・・・ それを使う(活用)
ビジネス ・・・ 沢山の人に届ける(認知・流布)

まとめる上のようになります。
順番があるように見えますが、これらは人がもともともっている生得的な能力の発露です。「デザイン」という視座からは、この遠来な景色がとてもよく見えますね。**

アートからデザインの始まり、組み合わせという創造の原点、人が持つ「概念の共有」という力について、そして生活とひろがりのお話、まずは一旦おひらきです。ありがとうございました。

おわり)

*)もちろん手作りの時代にもデザインはありましたけれど、それらはクラフト、職人技として、どちらかちいうとアートとして区別されています。

**)これはまた、自分の「刃」に取っ手を付けて社会に役立たせて行く、というような、ごく個人的な(自分とは・・)という問いを見渡すヒントになります。

概念を組み合わせる=創造する2025年02月12日 18:08

みなさまこんにちは^^

石器とデザインの始まりと工夫の組み合わせ、そこから人の知的能力の特徴「概念の共有」についてお話ししています。

「概念の共有」という能力は、様々な飛躍を生んだと想像されます。
石器の発展を例にとって見ますと、、

概念の組み合わせ

「切れる石」と「持てる棒」をそのまま組み合わせても悪くないのですが、「切れるもの(という概念)」と「持てるもの(という概念)」を組み合わせると、「切れて持てるもの」という新しい「刃物*」という概念が現れてきます。この新しい概念がさらに組み合わされて加速して行った、、イメージ沸きますね。

(つづく

*)実際のところ、「刃物」と命名したかどうかは不明ですが、何がしかの呼称を持つようになったと思います。「概念と言語」の関係も興味深いところですね。

概念の共有2025年02月10日 10:22

みなさまこんにちは^^

デザインの始まりというお話をしていまして、その初期から「アイデアは組み合わせ」という行いが見られました。個別の発見や経験をくみあわせて、新しいものを作って行く行為で、とても知的な営みです。

ここで一旦、人間の頭の良さについて。
どこかで、動物に出来ないと思われていたものが実は出来る事が分かってきた、というお話しを見聞きされたことがあると思います。「道具を使う」「言葉を持つ」「共同作業をする」「遊ぶ」などは、身近な動物でもイメージ出来ることありますよね。

良く知られた例として、カラスは人間の幼児よりも問題解決能力が高いといわれます。
固いクルミを地面に置き、車に轢かせて食べるとか、複雑な解錠手順を視覚から学習して再現するとか、です。鳥類一般に、愛情は深く知能も高い傾向があり、文法を持つ言語コミュニケーションも観察されています。
群れで狩りをする動物は多いですし、野生動物の遊びも観察されています。

人の知性を決定的に特徴づけているのは「概念の共有」です。
カラスと幼児の比較では、単独作業ではカラスの方が圧倒的に得意でも、共同作業が必要な課題は人間の幼児の方が圧倒的に得意です。
たとえば、「ひとりでは動かせない大きな箱の向こうにおもちゃがある」という状況では、人間の幼児なら目配せ一つで二人がかりの作業に取りかかれます。これが訓練なしに出来るのは今のところ人間だけだそう。
これは「箱を動かしておもちゃで遊ぶ」という目的を共有したからなのですが、その共有だけで、「箱の両端に別れる」「それぞれが箱を持つ」「同時に動かす」という複雑な行程を組んでしまうのは凄いことです。

知能比較

写真の右側はおままごとをしている子供たち、ぬいぐるみを赤ちゃんと見立てて遊んでいるところです。女の子が「このこはあかちゃんね」と一言言うだけで「ぬいぐみみ=あかちゃん」として自分の振る舞いを変えて行くのですから凄いですね。

これは、先程の「目的の共有」より抽象度の高い「概念の共有」です。概念を共有することのとてつもない力は、デザインにおいて日々感じています。この能力が私たちを「意味世界」の人たらしめているみとをしみじみと感じます。

当然、創造においてもその力強さを発揮するのですが、それはまた。

(つづく

「アイデアは組み合わせ」の原点2025年02月07日 18:05

みなさまこんにちは^^

デザインの始まりについて石器の話をしておりまして、「割れた石は切れる」ということを発見して、使いやすい形に創意工夫していく、その営みはデザインそのものだ。そんなお話しです。

この「使いやすい形にする」段階をよく見ますと、「割れた石」とは別の要素が入っています。持つための「棒」です。

アイデアは「発見」の組み合わせ

「発見」の組み合わせ

割れた石に「切れるもの」を発見したように、折れた枝に「持てる」ものを発見し、それを組み合わせて「刃物」を創造しました。これは「アイデアは組み合わせから生まれる」という原則そのものです。
当時の生活スタイルは謎に包まれていますが、この組み合わせの推移を見ることでどのように暮らしぶりが変わったのかを想像するのは楽しいですね。

(つづく

デザインの始まり 石器の話22025年02月05日 18:12

みなさまこんにちは^^

デザインの始まり、石器の話の続きです。

使いやすい形にする

形を工夫

写真は槍や矢じりとして使用されたであろう石器です。(復元)
石器は手で持つ使い方から、棒の先に横向きにつけて斧にしたり、先端につけて槍状のものに広がりました。この道具の登場は狩猟スタイルを激変させたことでしょう。グループ間の争いもより過激になりました。(諸説あり)

用途を拡げる

用途拡大

道具は、使って行くうちに(あ、あそこにも使える)という発見と、(それならばこうしよう)という変化が生まれます。これはもちろん、生活のスタイルの変化をずっと伴っています。

人はデザインする生き物

人はデザインする生き物

割れた石に「切れる」を発見してからここまで数千年の間がありますが、進化の視点からは一瞬であり、自動的な遷移といえるそうです。
「人はデザインする生き物」なんですね。

デザインの始まり 石器の話12025年02月03日 10:33

みなさまこんにちは^^

年頭にデザインの始まりについて石器に触れました。今日はもう少し詳しくお伝え出来ればと。

私たちは何かを美しいと感じる心を持っています。また、自身の活動の痕跡にもこの心が働き、「表現」へと昇華させる力があります。*
石器には私たちの持つこの力の発動を見ることが出来ます。

割れた石の鋭利な形=「切れる」の発見

割れた黒曜石

写真は割れた黒曜石です。
自然の中で、割れた石の端面に触って怪我をしたり、倒木に突き刺さっているのを見たりするなどして「割れた石の端面はものが切れる」ということを発見しました。
そして手に持つのに丁度良いものを道具として使い始めました。

「切れる」鋭利な形を求めて石を割る

石器の再現

写真は石器の原型のひとつを再現したものです。
ほどなくして、割れた石を探すのではなく、自分たちで石を割って使い出します。石器の始まりです。

私はこの「発見」の喜び、「再現」の手応えを生々しく感じます。人として自然で、ものを作ることの喜びに満ちています。

ちなみにこの行為には「誰かのため」という視点は重要ではありません。そこも興味深いこと**なのですが、それはまた別の機会に。

(つづく

*)美しいと感じる心と表現についてはこちらをご覧ください。

**)人が自他の区別を明確に意識するのは個の概念が確立した中世以降、という説があります。真偽は別としても、社会階層の複雑化が進んでいない小規模の集団の中では、自分のためはみんなのため、であったと考えて差し支えないと考えます。
dmc.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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