賞と売り上げ2024年05月06日 10:58

デザインの効果を尋ねあぐねてらっしゃる皆さまこんにちは^^

「デザインは二つしかない。売れるデザインと賞をとるデザイン、そのどちらかだ。」

とある世界的大企業のデザインセンタートップAさんのお言葉です。2000年代、日本のメーカーは「売れるけどかっこ悪い」というレッテルを嫌い、日本のデザインが世界トップクラスにある事を、各国のデザイン賞をとる事で証明しようとしていました。実際、多くの日本製品が賞をとり、日本のデザインが垢抜けないとは言われなくなりました。

Aさんはまさにその頃、日常的に「売れるデザイン」と「賞をとるデザイン」の両方をディレクションされていた方です。Aさんには開業時に大変お世話になったのですが、この言葉を正面から言われた時はちょっと戸惑いました。(賞をとってその上売れるのが良いのでは?)と思ったからです。
しかしAさんと仕事をさせて頂く中で、Aさんの認識の方が正しいと思い直しました。当時の賞をとるようなデザインは、日本ではうけなかったからです。(「MAYA段階」参照)
これは「レースで優勝して量産車を売る自動車メーカーのようなものだ」、と独り言ちた事を覚えています。

時間が経って、、。
Aさんはメーカーのブランドイメージ向上と売り上げの確保という命題と当時の市場環境を鑑みて、シンプルな2方向のディレクションにまとめられていた、と拝する事が出来ます。

今「日本でデザインする」そのことの立ち位置はどのあたりでしょうかね。
賞か売り上げかはいずれにせよ、デザインは使用者の立場に立ってするものです。使用者目線でどうあればよいのか、その主軸がはっきりしていれば見えてくるものなのです。(詳しくはご相談ください^^)

MAYA段階:受け入れられる革新とは2024年05月01日 10:24

デザインの革新性におなやみの皆さまこんにちは!

20世紀のアメリカンデザインの巨匠「レイモンド・ローウィ」氏のデザインは、その名を知らなくても、流線型の機関車やピース(たばこ)をご存知の方は多いでしょう。
ローウィ氏は徹底して「売れるデザイン」を求めました。そして1940年頃発見したという肝要が「MAYA段階」です。

MAYAはMost Advanced Yet Acceptable(最も革新的だが受け入れられる)の頭文字をとったものです。
消費者の先進的なものへの憧れと未知への恐怖のぎりぎりのところ、そこが「売れる」のだと。この理論は画期的で理解も実践もしやすいため広く受け入れられたようです。
(過去形で書きましたが、今でも基本のキに違いありません)

昨年のAIショックではその革新性が驚きと共に受け入れられました。AIの技術自体はもっと以前からあり、完成度の低さとその危険性から一部の開発者のものに留められていたそうです。そして、今急速に普及しているAIも完成度はそれほど変わらないとも。これは興味深い事例だと思います。
AIにおいては、Chatというあり方が「受け入れられる形」でしたね。(そして、「言葉遣いのうまさ」が「情報の信頼度」に勝るという、誰もが薄々感じて居たことが明確に追認されました。余談です。)

AIの受け入れられ方をみて思い出す事例が二つあります。LINEとパズドラです。
LINEは後発のチャットアプリでしたが、そのレスポンス抜群のUIの使い心地が他を圧倒しました。
パズドラはスマホのゲームで、並んだコマをなぞって消すパズルゲームと対戦ゲームを合わせたものです。こちらも多数ある同種の中から「なぞって消す楽しさ」が群を抜いていました。
どちらも、UIの使い心地が支持を受けるかどうかの分かれ目になりました。

AIに話を戻しますと、「言葉遣いの上手さ」は使い心地の肝ですね。
テクノロジーが前面化したいまは、「使い心地」がMAYA段階に達する手段となっているのだと思います。

MAYAのイメージ
AIが描いた「MAYA段階」のイメージ

シンプルというより、「ピュア」2024年04月29日 10:31

使いやすくて魅力的なデザインを企む皆さまこんにちは^^

以前、「シンプルなデザインにも攻めと守りの二通りある」というお話をしました。
守備的に多くの人の支持を得ようとするスタンスと、メッセージとを単純にして積極的に伝えて行こうとするスタンスです。
そして、攻めと守りを行き来しながら、多くの方に受け入れられる特徴のはっきり伝わる形を求めて行くのですね。

こうして出来上がった「シンプル」が、ありふれた「シンプル」と一線を画す個性を獲得します。この違いについては、現場でも何度も議論してきました。両者が違うことはたやすく共有出来ます。ただ、時間の経過と共にぼやける事もしばしば。言葉が同じだからかもしれません。

そこで、このつき詰めたシンプルを「ピュア」と呼ぶ事にしました。これはアルマーニ氏が使っていたワードから頂いたものです。

いま開発されてる製品を「ピュアなものにする」。より研ぎ澄まされた印象を共有出来たら嬉しいです。
ぜひ「ピュア」を目指してみてください。

デザイン・生活2024年04月19日 18:40

ジョルジオ・アルマーニ
デザインがお好きな皆さまこんにちは^^

先人の言葉をもうひとつ。

「デザインは生活のためのものだ。この点だけは絶対に譲るつもりはない。」ジョルジオ・アルマーニ

これはNewsWeekに掲載された、インタビュー「美は東洋にあり、だ」を締めくくる言葉でした。
インタビューでは東洋の生活様式の知恵、ミニマリズム、洗練されたデザインの製品は全て極東で作られているみこと、東洋ではデザインが日常生活に溶け込んでいるなど、東洋への憧れを隠さず語っています。

アルマーニのスーツはバブル世代のアイコンのひとつだったので、バブル的な高額高付加価値なイメージを持っていましたので、ちょっと新鮮な印象だった記憶があります。
でも仰ってることはすっと入ってきました。
そう、「デザインは生活のためにある」、です。

話とびますが、アップルのスティーブ・ジョブズがソニーに憧れ、日本を愛し、日本の美を標榜していた話は有名ですよね。アップルは普通の人向けにコンビューターを作ったことが革新的でした。普通の人向けだからこそデザインが大切なのだ、ということを強く行動で示し続けた方でした。
ここでの「普通の人」は、アルマーニ氏における「生活する者」に類すると思います。

この二例から結論を出すのは拙速ですが、日本的な美意識が共鳴する方向性というものを感じてしまいます。シンプルで便利で合理的な生活、といいましょうか。(アルマーニ氏は「ピュア」を使っていました。)

アルマーニ氏は冒頭の言葉の前に、若手デザイナーに言いたい事としてこう仰っていました。

「デザイナーの仕事はサービスを提供することであり、今まで誰もやっていないことをやってみせることじゃない。誰もやっていないとしたら、やる必要がなかったからだ。そんなものを作っても、デザイナーの自己顕示欲を満足させるだけで、役には立たない。」

ぶった切ってますね。
私はこの怒気を含んだメッセージに心強さを覚えたものでした。

「デザインは生活のためにある」
今も大切にしています。

詩・デザイン2024年04月17日 12:39

デザインがお好きな皆さまこんにちは^^

前回は「デザインとは何か」という問いについて、そのきっかけや現在の答についてお話しました。もう一度先人たちの言葉をなぞろう、と申しました通り、いくつか記憶に残っているものをあげて行こうと思います。

「デザインとは詩である」マリオ・ベリーニ(伝)wiki

(伝)と付けましたのは、原典が分からないためです。修業時代の最初の上司が教えてくれました。ところが私は全くといっていいほど詩を解せなかったため、(かっこいい言い回しだな、、)以上の感想は持てませんでした。ただ確かに、ベリーニ氏によってデザインされた家具や装置を並べた空間にいる中で、「デザインは詩だ」といわれたら、なんとなく(そうかも)と思える気もしました。造形の魅力のなせる技でしょう。

マリオ・ベリー二 カッシーナより

のちに実際にさわる機会があり、ちょっと印象が変わりました。この椅子はこうあるべき、この装置はこう使うべき、という明快で美しいビジョンがあるのです。これは本当に凄い事です。天才の仕事だな、と感服します。デザイナーが「作品」で表す世界、それが「詩」なのだ、と腑に落ちたのです。

しかし、この「美しい所作への意識」が、私には重く感じられました。否定的に言うと、親切ではないんです。(当時の90年代の時代感もあってそう感じたかもしれません。)
私という人間は「美しいけれど親切ではないものは嫌だ」と思うのだ、と気付く貴重な体験でした。そうして私は、「美しいことが親切であることを犠牲にしない」という指針を得たのでありました。

ちなみに、前後して「CI」等の「ブランドの世界観」を表すことがデザインの仕事としても目立ってきます。デザイナーが世界観を作ろうと思う時、「デザインは詩である」という視点はとても使いやすいメタファーだったでしょう。流石です。

「デザインの言葉」2024年04月17日 10:28

デザインとは何か、答えを探されてる皆さまこんにちは^^

このブログのタイトル「デザインの言葉」は、「デザイン」というもやっとしたものをしっかりと捕まえたくて付けたタイトルです。最近良く耳にする「言語化」というコンセプトですね。
「言語化」が浸透するはるか以前に付けたので、「先見の明があったな」と自画自賛したいところですが、実は大学の最初の授業で、教授の発した以下の問いが原点です。

「デザインとは何でしょうか」

当時の教授の説明は(恐らくは意図的に)明快ではなく、諸君もこの答えを探してみよ、というものでした。この問いは、入学したてのふわふわした私たちの脳内をさーっと抜けて行くはずの、儀礼的なオリエンテーションの一部でした。ですので一度は忘れたのですが、時間が経つにつれて印象深い光景として記憶されるようになりました。(「記憶」の仕組みを考えますと、事実からは相当変容していると思います。)

以後、著名なデザイナーの「デザインとは○○○」というエピソードを聴くたびに記憶していきました。ピント来るものもさっぱり分からないものもありましたけれど、それ自体愉快なことでした。

そして。

私自身の答えを持つようになりました。

一言で言うと
「デザインは贈り物」

行為をかみ砕いて言うと
「自分以外の誰かのために創意工夫する事」

時々振り返って吟味しますが、今のところこれ以上の表現は見つかっていません。
ですが、もうちょっと平易でかつ芯を捉えた言葉があったら、、と思っています。
それから、「ビジネスとしてのデザイン」という見方だと、上の表現はもの足りないところがあります。企業にとっての価値とか、問題解決の力強さとか、そういうところですね。これも宿題です。

そこで、先人の言葉をあらためてなぞって見よう、と思っています。

外部に宿る記憶2024年03月18日 19:08

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

先月、大量処分の過程で(試算的な価値とは別に)モノには3つの価値があることを体感したお話を書きました。その中の一つ「記憶を呼び起こす」について、UIとの関連に触れたいと思います。

エピソード記憶
フランスの作家「マルセル・プルースト」の著書「失われた時を求めて」の作中で、マドレーヌを紅茶に浸した際の匂いから幼少の記憶を思い出す一節があることから、香りから記憶や情景が鮮やかに蘇る現象に「プルースト効果」の名が付いています。これは特定の匂いがある記憶を思い出させることを示しています。(名付けの由来から「マドレーヌ効果」と間違って覚えていました。余談。)
ある特定の体験と外的刺激がセットになって記憶されていて、「その刺激がきっかけとなってその体験を思い出す」という現象は、匂い以外の刺激でも起きます。その曲を耳にするとあの試合を思い出すとか、海沿いの日暮れの渋滞にあたると子どもの日焼けした寝顔を思い出すとか、そういうことをだれしも一つはお持ちだと思います。
これは「エピソード記憶」と呼ばれる、個人的な体験や特定の出来事に関連する記憶です。記憶そのものは私の中にあって、刺激は切っ掛けに過ぎないように見えています。日常的な体感としてはそれが普通だと思います。

外部に宿る記憶
ここで、今手元にはないけれど毎日使うものを思い出して見て下さい。愛用の茶わんとか、壁の時計とか、カレンダーのグラフィックとか。正確に思い浮かべられる方はどのくらいいらっしゃるでしょう。以前に茶わんの記憶について試した事があるのですが、私のまわりでは、私も含めて一人も正確に覚えている人はいませんでした。そして、当たり前ですが、実物をみればだれも間違えません。自分の親しんだものはよく似たものでも見分ける事が出来ます。この場合の「記憶」はどこまで脳内に収まっているのでしょうね。「きっちりと収まってはいるけれど全て思い出す事が難しい」のか、「ぼんやりとしか入っていないけれど識別出来るポイントはしっかり記憶されている」のか、、もっと違う解釈もあるかもしれません。私が興味を引かれたのは、この現象を「外部記憶」もしくは「記憶の外部性」として捉える考え方でした。
茶わんの模様の記憶は、茶わんの模様そのものに宿っている、という見立てです。人はそのものに宿った記憶の断片を覚えているに過ぎない、という。ちょっと詩的な見方です。
しかし、この「人の曖昧な記憶を『外部記憶』が補完する」というアイデアは、UIと相性がいいのですね。直感的に使える、もしくはぱっと見は難しそうでも触れば自然と使えるようになる道具や装置は、インターフェイス自体が使い方のヒントになっています。適切なヒントは、使用者の記憶の断片の中から、適切な動作を想起させます。この想起させるきっかけとしての文字や絵、操作を促す形、構造を理解させる配置などは、「記憶の外部性」を上手く使っている例と言えるでしょう。

ちなみに「外部記憶」というワードは、ざっと検索した範囲ではハードディスク等の意味以外には使われていませんでした。認知や記憶に関する最新の知見とは別の話です。念のため。

モノの環境化:環境への期待値に寄与する2024年03月04日 11:25

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

モノを群相として捉える話を続けています。
語彙を上手く使い分けられているのかちょっと心もとないので一度整理して見ます。

「環境をモノとして扱う」ことと「モノが環境化する」こと
「環境をモノとして扱う」ことと「モノが環境化する」ことは、言葉が似ていますが全く違うことをさしています。以下の意味で使っています。

【環境をモノとして扱う】
環境を意図をもって改変すること。人のモノへの態度をさす。
【モノが環境化する】
モノが配置される場所によって目的性を強化したり失ったり変質したりすること。モノの変質をさす。

環境を意図で満たすことは難しい
まず、前者の「環境をモノとして扱う」の究極は、身の回りのものすべてが意図に沿ってモノで満たす事でしょう。しかし、すべての空間を自分の意図や目的に応じて整理し、生活空間を完璧に構成するのは難しいことのように感じます。知識も経験も必要ですし、気持ちは移ろうものなのでそれを内包させるのはプロの仕事でしょう。
普通の人々は、欲しいと思うものや憧れるもの、いつか試してみたいものを手に入れ、使い、並べ、少しずつ改変していくことで、生活空間が出来て行きます。これが自然な成り行きですし、その過程は楽しいものです。
私自身は、整然とすべてに意図が行き届いた空間には大いに畏敬と美を感じる一方で、雑然としながらもその人の手の届く範囲に全てがあるような空間に強く惹かれます。

モノが環境化する
話は飛びますが、引っ越し先のがらんとした部屋に荷物が沢山入ってきたとたん暖かくなった、ということを経験しました。物理的に空気の流れがかわり、熱容量も変化するからだそうです。(余談。避難所で寒い時には荷物で空気のたまり場をつくる事が有効ですって。)
家具の配置で動線も変わりますから、部屋の環境としての質は、モノの配置や量に影響を受ける、と言えるでしょう。
しまわれたり飾られたりしているモノのいわば「出番がない時」には、大きさや素材や収納性(積んだり倒したりしても壊れずしまいやすい事)が、本来の目的とは別の所で効いてくるんですね。

環境への期待値に寄与する
また、娘たちが小さい時はお菓子の道具が沢山ありました。「○○がつくりたい!」と言った時にその道具や材料がすぐ揃う事が、娘たちにとっては驚きであり私たちにとっては喜びでした。のちに娘の一人が「このキッチンでは何でも作れそうな気がしていた」と言いっていました。これは娘の経験が「環境への期待値」を高めたのでしょう。これをモノの側から見ますと、「しまわれたモノたちが環境への期待値に応えた」とも言えそうです。この「環境への期待値に寄与する」は、モノの捉え方の一つとして大事かもしれません。

一つの物をデザインする際には、全ての空間の意図を考慮することは不可能ですが、その物を手に取る人が何に魅力を感じ、どのように生活の中に取り入れ、また不要になった時にどのように扱われるかを想像することは楽しく、また必要な作業だと思います。この思考過程で、モノを群として、環境として捉えるという視点は大切だと改めて感じています。
ちなみに、生活環境を整えるチャンス、具体的には家を買ったりリフォームするタイミングでは、プロの知見を活用して、目的のある空間と無目的な空間を上手くミックスし、自分たちに馴染んでいく過程を楽しんでいただければと思います。

環境としてのモノ:レイアウトの重要性2024年03月01日 16:01

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

生活環境でモノを見渡す
「モノの群相を環境として捉える」という考え方をもう少し具体的にかみ砕いて見たいと思います。
人とモノの関わり合いを、1対1ではなく、一人の人の生活空間から俯瞰して見ましょう。
まずモノですが、時計を見る、音楽を聞く、ポットを使う、リモコンを操作するなど、さまざまな形や距離感で人の生活に関与しています。それぞれのモノは、何らかの目的を持って選ばれたり受け継がれたりしてそこにあるものです。(その使用を通じて目的が変化することもありますが)一定の目的性を持つことが重要な特徴です。
また、モノには要不要があり、不要になった際には人はそれを捨てたり片付けたりすることができます。つまり、物の生殺与奪は人が握っており、これをモノの「負の絶対性」と呼ぶことができるでしょう。

環境の絶対性
これに対して、環境は与えられたもの、または与える側が意図したものとして捉えられます。本来の意味の環境には負の絶対性は有りません。環境の側に絶対性があり、私たちはただ甘受するしかありません。
しかし、私たちは生活環境を目的に応じて、または要不要によって選択し、変化させていこうとします。住む場所を選んだり、エアコンや家具などを換えたりしますが、これは「環境をモノとして扱う態度の表れ」と捉えることができます。

レイアウトの重要性
さて、モノには一つ一つに目的や必要性がありますが、群として見た時、配置によってその目的性が強化されることがあります。例えば、キッチンで道具が使いやすく並んでいる場合などがこれに当たります。モノが並ぶことでその目的性が相互に強化しあうのですね。
しかし、収納の中に収まっている場合は、モノの目的性も必要性も低くなります。また、飾り棚に飾られている場合は、目的性よりもその人の個性を表現する側面が強くなります。
モノを群として捉えた場合、レイアウト(どこに置くか)が非常に重要であることがわかります。「レイアウトによってその意味や重要性が変わる」というのは、ユーザーインターフェースデザインの基本です。そのUIの基本が、現実の生活空間でも同様の作用を持つというのは非常に興味深いことです。

UIの見方から環境を見渡す、、面白くなってきました。
続きはまた。

モノを群として捉える:環境デザインとしてのプロダクト2024年02月28日 11:44

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

前回は「答えのない問いがらしさを作る」というお話をしました。持ち続ける問い=問題意識が、その人の作るものに一定の個性を与えるということですね。

モノの「群相」
最近、私の問題意識が枝分かれし、新たな問いが芽生えました。
それは、モノを個々の存在としてではなく「群相」として捉えた場合、「環境としてのモノと人の幸せなあり方とは」という問いです。この視点は、空間デザインや都市計画の分野に属するかもしれません。
私がデザインしたものを含め、生活の中に溢れるモノたちを俯瞰して考えるとき、それらは単なる個別の存在ではなく、「群」として環境的な効果、役割を担うというのは自然な考えだと思います。
私はまだ完全には言語化できていないのですが、モノと人との関わりを考えていく中で浮かび上がってきた問いです。これは、最近経験した大量処分の影響を受けていると自覚しています。

環境をモノとしてデザインする
この問いは最近になって認識しましたが、私は過去に何度か環境をデザインすることに夢中になった事があります。その時は、プロダクトデザイナーとしての立場から少し離れたテーマであるため、興味深いと感じつつも、自分にとっての必然性をあまり感じていませんでした。
しかし、先に述べた問題意識が徐々に明確になってきたことで、これまで考えてきた環境のデザインについて、再度整理してみようと思っています。
環境デザインの初心者ではありますが、「モノとしての環境・環境としてのモノ」という視点で「人とモノとの関わり」の地続きの課題である「環境」を考えて見たいと思います。
dmc.
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「デザインの言葉」 by Fumiaki Kono is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.