修理可能性と「生活を回すもの」の終わり2024年02月12日 10:22

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

モノの3つの価値
前回は私の気付いたモノの3つの価値についてのお話をしました。ひとつのモノは3つの価値(生活を回す・記憶を呼び起こす・思想信条を表す)で見る事が出来ます、という話です。一つの側面しかないモノもありますが、3つの価値を合わせ持つモノもあります。
たとえば、私が日常的に使っている揃いの浅い茶わん。この茶わんは母が生前最後に自分で求めたものでしたので、折りに触れて母や家族との思い出を感じさせます。いくつかは割れたりかけたりしましたが、金継ぎをかけて鑑賞に堪える見栄えを持つようになりました。この茶わんは私にとっては生活を回すものであり、記憶を呼び起こすものであり、思想信条をあらわすものであります。

価値が増える
同じように揃いで求めた思い出もある茶わんやティーカップでも、欠けたり割れたりして処分したものもあります。私の中で、この違いがなぜ生じるのか不思議で興味深いこととなりました。捨てておわるモノと直して使い続けるモノはとこがどう違うのでしょう。
上の茶わんはある窯元の定番品で、高級品ではありませんが母も私も気に入っていました。直したことで姿がより魅力的になりました。母の最後のお買い物というエピソードもあります。
やはり、
・良いものである
・直せる
・エピソードがある
が揃っていたから使い続けようと思ったのでした。
(残した茶わんより高額な品でも、愛着が薄かったり直せなかったりしたものは処分しました。処分は売ったり差し上げたり捨てたりしました。)

「生活を回すモノ」の終わり
生活を回すモノが壊れたり不要になった時、つまり「生活を回す」価値が失われた時に、そのモノの終わり方を考えることはとても大切テーマだと感じます。
生活を回すモノが壊れたり不要になった時に私たちは、そのモノに込められた記憶や個人の思想、心情を保持するにはどうしたらいいかを突きつけられるからです。このプロセスはちょっとしんどいことですけれど、モノとの関係性を深め、大袈裟に言えば物質的な文化における個人の位置づけを再考させる機会となります。

修理可能性
ここで持続可能な消費と生産の観点からみたとき、「修理可能性」が極めて重要なことに気付きます。
SDGs(持続可能な開発目標)の中の目標12「つくる責任、つかう責任」に関連させて考えますと、資源の有効利用、廃棄物の削減、環境への負担軽減など、持続可能な社会を目指す上で「修理」は欠かせません。修理を通じてモノの寿命を延ばすことは、廃棄物を減らし、新たな資源の消費を抑えることに直結します。
見回しますと、地域社会の経済や職人技術の保持にも寄与し、多面的な価値を生み出す可能性をもつものとして修理文化の復活が語られてもいますよね。

モノの修理可能性に注目することは、単に経済的、環境的側面だけでなく、社会的、文化的側面からも重要な意味を持っている事が分かります。
デザインが「良いもの」を志向するのは当然の事として、その中に修理可能性を内包させる事は大きな意味を持つでしょう。

余談:モノによっては修理できない、もしくはさせないという意図も成立すると思いますがそれはまた。

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