「モノの終わり」2024年01月22日 17:48

デザインで飛躍を企むみなさまこんにちは^^

大量処分の経験
最近、大量のモノを処分しました。
娘たち三人が独立し、二親を見送った自宅を縮小しようとして、家財を四分の一ほどにしたのです。その際に本当に沢山のモノを、買い取りに来てもらったり、リサイクルショップで売ったり、お金を払って処分したり、粗大ごみに出したり、メルカリで売ったり、地元の方にシェアしたり、家の前に置いて持って行ってもらったり、また普通にごみにしたりして処分しました。
この経験はとても刺激的で、途中まではいわゆる「断捨離」という感覚もあったのですが、だんだんと断捨離というよりは「ダムの水を全部抜く」という比喩がしっくりくるようになりました。
水が無くなったダムの底に現れるのが美しい里山なのか、不法投棄の残骸なのか、、。これまでの生活の在り方について改めて突きつけられるような、審判を受けるような神妙な気持ちになりました。モノを作って供給する側にいるものとして、とても感慨深くありがたかったです。

デザインに持続可能性や環境への配慮が求められる中、「モノの終わり」についてもう一度考えて見たいと思います。

精神的な空間の整理
「モノを捨てる」ということが物理的な空間だけでなく、精神的な空間も整理するプロセスだったと思います。大量の処分は、その量によって単に不要な物を処分すること以上の意味を持ち、私の生活とその価値観を反映しました。また、「介護の終わり」という大きなライフイベントの後でしたから、なおさら深い意味を感じたのかもしれません。

モノとの関係の再考
私が特別なのではなく、一般的にモノの処分を通して、これまでの生活の在り方を見直す機会になることは多いです。モノが私たちの生活にどのように影響を与え、私たちの記憶や感情にどのように結びついているか、これを再認識することができます。

「モノの終わり」の重要性
私が感じた「モノの終わり」というテーマは、デザインの終わり方の倫理と深く関わっています。私たちの周りにあるモノたちがどのようにして私たちの手を離れ、新たな形で生まれ変わるか、または消えていくかを考えることは、持続可能な生活を送る上で非常に重要です。

精神的な解放
「ダムの水を抜くような感じ」はその比喩通りの解放感も含んでいました。その結果見えてくるものが美しい里山であれ、不法投棄の残骸であれ、それは私自身の一部であり、新たな始まりへの一歩だと思います。

まとめ
私の個人的な経験でしたが、多くの人が直面するであろう課題と変化を当事者として経験できたと思います。モノとの関係を見直し、「モノの終わり」に意識を向けることは、私たち自身の持続可能な未来への歩みにとって不可欠だと再認識しました。この経験を通して、人とモノがともに過ごす時間への解像度を上げることができました。
「愛されるデザイン」を思う時、この視点はとても大切だと思います。

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