目に見えない ― 2011年02月01日 23:59
先日、久しぶりに秋葉原を歩きました。
久しぶりといいましても年に何回かは行きますので、その変遷は感じています。
その中で、何十年も続くパーツ屋さん、オーディオ屋さん、無線屋さん。興衰を繰り返すPCや家電、コンテンツ系の大型店舗の間でひっそりと、でもしっかりと軒を構えています。
「ロングテール」のリアル店舗といえばそれまでですが、ロングテールはコストがゼロに近いからありえる話であったはずで、リアル店舗のコストは決して低くないはず。少なくとも、支える顧客が居続けている事になります。
「コア」というのでしょうか、知識豊富でこだわりをしっかりと持つであろう方々が出入しているようです。
上記の趣味に限ったことではありませんが、この方々が感じていらっしゃる価値は目には見えていない所にまで及び、その代わりに沢山の言葉が尽くされています。
あるお店の総額一千万円を超すオーディオセットでボサノバを聴きながら、その目に見えないものに思いを巡らせました。
答えは、、そう簡単には判らないですよね。
でも「いい!」と体感してしまったら、その良さを探りたくなるものかもしれません。それを探るのは楽しい事でしょう。
久しぶりといいましても年に何回かは行きますので、その変遷は感じています。
その中で、何十年も続くパーツ屋さん、オーディオ屋さん、無線屋さん。興衰を繰り返すPCや家電、コンテンツ系の大型店舗の間でひっそりと、でもしっかりと軒を構えています。
「ロングテール」のリアル店舗といえばそれまでですが、ロングテールはコストがゼロに近いからありえる話であったはずで、リアル店舗のコストは決して低くないはず。少なくとも、支える顧客が居続けている事になります。
「コア」というのでしょうか、知識豊富でこだわりをしっかりと持つであろう方々が出入しているようです。
上記の趣味に限ったことではありませんが、この方々が感じていらっしゃる価値は目には見えていない所にまで及び、その代わりに沢山の言葉が尽くされています。
あるお店の総額一千万円を超すオーディオセットでボサノバを聴きながら、その目に見えないものに思いを巡らせました。
答えは、、そう簡単には判らないですよね。
でも「いい!」と体感してしまったら、その良さを探りたくなるものかもしれません。それを探るのは楽しい事でしょう。
ニューカマー ― 2011年02月02日 23:59
先日NTTドコモはスマートフォンの通期販売目標を250万台に上方修正しました。来期は全体の3分の1程度を占める600万台前後の販売を見込んでいるそうです。身近でも色々なタイプのスマートフォンを見かけるようになりました。
天気や電話番号に始まり、地図、乗換、お店などなど、必要な情報を必要に応じて提供するサービスが、ネットワークとプラットフォームによって大きく変わってきましたが、スマートフォンが普及することで、これらの情報サービスに加えて「アプリケーション」が携帯出来るようになります。これは様々な事象を生むに違いありません。
これまでネットやデジタルとは無縁だった機器が、アプリケーションを用意することで手のひらにUIを持てるのです。これは画期的な事ですね。
何故画期的かと言いますと、機器同士が通信して何か知的な事をするのはとてもハードルが高いのですが、それぞれが人とつながる事で容易に知的な製品になるのです。
例えば冷蔵庫と電子レンジが繋がったとして、取り出されたものの情報を冷蔵庫が電子レンジに送って調理法を提案する、、この方法は余り上手くいかないことがわかっています。
でも、手のひらで冷蔵庫の状態がモニター出来、電子レンジに有るレシピ情報を確認出来たら便利そうですね。
このような方法を好まない方も沢山いると思いますが、充分にニーズのある行為であれば、より不便な方法を選択し続けるのも困難な事でしょう。
さて、その様な状況では、人はますますデバイスを眺めたりチェックしたりするようになりそうですが、、相当神経質な印象を持ってしまいますね。
この点の受け取り方にも世代によって大きく異なるのでしょうけれど、未来はそんな神経質で、目の前にいる人との関わりよりオンラインでの振舞いに気を使うような社会なのでしょうか。
私見ですが、それは人を疲弊させます。その疲弊は受け入れ難いものでしょう。
「オンラインが潤沢な世代」の価値観から俯瞰したとき、オンラインでいる事は受け入れ、その中で選択肢を狭めたり強制される事は受け入れられないと考えます。そして、「オフライン」に選択的で積極的な価値が見いだされるに違いありません。
これこそが真に画期的な事なのではないか、、そんなことを考えています。
天気や電話番号に始まり、地図、乗換、お店などなど、必要な情報を必要に応じて提供するサービスが、ネットワークとプラットフォームによって大きく変わってきましたが、スマートフォンが普及することで、これらの情報サービスに加えて「アプリケーション」が携帯出来るようになります。これは様々な事象を生むに違いありません。
これまでネットやデジタルとは無縁だった機器が、アプリケーションを用意することで手のひらにUIを持てるのです。これは画期的な事ですね。
何故画期的かと言いますと、機器同士が通信して何か知的な事をするのはとてもハードルが高いのですが、それぞれが人とつながる事で容易に知的な製品になるのです。
例えば冷蔵庫と電子レンジが繋がったとして、取り出されたものの情報を冷蔵庫が電子レンジに送って調理法を提案する、、この方法は余り上手くいかないことがわかっています。
でも、手のひらで冷蔵庫の状態がモニター出来、電子レンジに有るレシピ情報を確認出来たら便利そうですね。
このような方法を好まない方も沢山いると思いますが、充分にニーズのある行為であれば、より不便な方法を選択し続けるのも困難な事でしょう。
さて、その様な状況では、人はますますデバイスを眺めたりチェックしたりするようになりそうですが、、相当神経質な印象を持ってしまいますね。
この点の受け取り方にも世代によって大きく異なるのでしょうけれど、未来はそんな神経質で、目の前にいる人との関わりよりオンラインでの振舞いに気を使うような社会なのでしょうか。
私見ですが、それは人を疲弊させます。その疲弊は受け入れ難いものでしょう。
「オンラインが潤沢な世代」の価値観から俯瞰したとき、オンラインでいる事は受け入れ、その中で選択肢を狭めたり強制される事は受け入れられないと考えます。そして、「オフライン」に選択的で積極的な価値が見いだされるに違いありません。
これこそが真に画期的な事なのではないか、、そんなことを考えています。
新年快楽! ― 2011年02月03日 23:59
白いSLS ― 2011年02月04日 23:19
アナログの周辺情報 ― 2011年02月07日 23:59
レコードからCDに移行する時、オーディオファンの間で議論された「デジタルvsアナログ」は、銀塩からデジタルに移行する際も少なからず議論されましたが、CDの時ほどデジタルが拒絶されてはいなかったですね。
一つにはレコードからCDへの移行を既に体験していた事と、もう一つには、「目に見える」ということが容易に他者と共有出来るものだからでしょう。
「オーディオ」も「写真」も、「品質にこだわる特別なもの」から「身近な楽しみ」に変えたのはデジタルでしょう。機会が増えると言う意味でも、コミュニケーションとの相乗効果で生活の中に溶け込む力が発揮されたと思います。
一方で、旧来の技術に特別な魅力を感じている人たちも沢山いらっしゃいます。レコードプレイヤーは世界中で新製品が発表されていますし、銀塩カメラも健在です。
それぞれに深く広い世界がありますので一言では括れませんが、決してノスタルジーだけではない何かを感じていらっしゃるのは間違いありません。
その「何か」とはなんでしょう。
いわゆる「味」なのでしょうけれど、私は、もしかしたらそれは「周辺情報」かもしれない、と思っています。
周辺情報とは、例えば運転中に聞こえているエンジン音のようなものです。運転そのものには直接関係のない音ですが、人の好嫌を決定する大切な要素であり、ユーザーはそのちょっとした変化に敏感になります。エンジン音に異常があれば行動が変化しますよね。
エンジン音にユーザーが日常的に「気に入っている」ことを意識したり、無意識の中で心地よさを覚えるのはまさに「味」と言えますね。
ただ、オーディオや写真の場合自動車と異なるのは、機械そのものだけでなく、その機械を通じて表現されるものがある、ということです。
オーディオ機器の周辺情報は、機器が動作している時の気配(光やスイッチのレスポンス)ですね。
そしてもう一つ「再生された音に含まれる再生機器の気配」もあります。
「実際に聴き分けることが出来るかどうかは別」として、ここに愛着の秘密があります。
なんだ、当たり前じゃないか、、というお話ですが、これはとても大切な示唆を含んでいるに違いありません。
一つにはレコードからCDへの移行を既に体験していた事と、もう一つには、「目に見える」ということが容易に他者と共有出来るものだからでしょう。
「オーディオ」も「写真」も、「品質にこだわる特別なもの」から「身近な楽しみ」に変えたのはデジタルでしょう。機会が増えると言う意味でも、コミュニケーションとの相乗効果で生活の中に溶け込む力が発揮されたと思います。
一方で、旧来の技術に特別な魅力を感じている人たちも沢山いらっしゃいます。レコードプレイヤーは世界中で新製品が発表されていますし、銀塩カメラも健在です。
それぞれに深く広い世界がありますので一言では括れませんが、決してノスタルジーだけではない何かを感じていらっしゃるのは間違いありません。
その「何か」とはなんでしょう。
いわゆる「味」なのでしょうけれど、私は、もしかしたらそれは「周辺情報」かもしれない、と思っています。
周辺情報とは、例えば運転中に聞こえているエンジン音のようなものです。運転そのものには直接関係のない音ですが、人の好嫌を決定する大切な要素であり、ユーザーはそのちょっとした変化に敏感になります。エンジン音に異常があれば行動が変化しますよね。
エンジン音にユーザーが日常的に「気に入っている」ことを意識したり、無意識の中で心地よさを覚えるのはまさに「味」と言えますね。
ただ、オーディオや写真の場合自動車と異なるのは、機械そのものだけでなく、その機械を通じて表現されるものがある、ということです。
オーディオ機器の周辺情報は、機器が動作している時の気配(光やスイッチのレスポンス)ですね。
そしてもう一つ「再生された音に含まれる再生機器の気配」もあります。
「実際に聴き分けることが出来るかどうかは別」として、ここに愛着の秘密があります。
なんだ、当たり前じゃないか、、というお話ですが、これはとても大切な示唆を含んでいるに違いありません。
素材の意味 ― 2011年02月08日 23:59
ギブソンが考案した、UIデザインでお馴染の「アフォーダンス」という概念は、例えば椅子は座ることをアフォードしている、というように「形が行為を促す」という理解で広く知られるようになりました。
アフォーダンスは形状を中心に語られますが、テクスチャ(肌理)とレイアウトの認識の中に位置づけられていますので、それらによって意味が変るものでもあります。
極端な例ですが、真っ赤に燃えた椅子は座ることをアフォードしません。
あるもののアフォーダンスを考える時、テクスチャは主に素材に由来するため固定的(要素還元主義的)な意味あいをまとっています。
金属は冷たい、重い、硬い、などの素材の特性は、そのまま金属質のテクスチャに感じる事です。
しかし最近、新素材や技術革新により、テクスチャーが新しいアフォーダンス、新しい意味を獲得しているのでは、、と思うようになりました。
20年ほど前はモニターに動く映像を2〜3歳児に見せた時、じっと見入ることはあっても手を出すことはありませんでした。言葉でのコミュニケーションが未発達だと、GUIは上手く行かない、というような説明をする人もいました。
しかし、今では手を出して「操作」を試みる子供たちは少なくありません。YouTubeでも幼児が使いこなす動画が沢山ありますね。
この変化の要因はさておき、アフォーダンスの観点で言えば、モニターが操作をアフォードする様になったと言えます。
モニターの形状も表示される映像もそれほど変らないのに、映像という「テクスチャ」の意味が変ったと言えるかも知れません。
また、アルミは金属でありながら「軽い」素材でしたが、最近はシーンによっては「重い」素材になってきました。自動車のボディなどがカーボン等の新素材に取って替られたからですね。
ガラス、木材、繊維等々、伝統的な素材にも、旧来のイメージや使用法にこだわらない可能性がひらかれて行くでしょう。
アフォーダンスは形状を中心に語られますが、テクスチャ(肌理)とレイアウトの認識の中に位置づけられていますので、それらによって意味が変るものでもあります。
極端な例ですが、真っ赤に燃えた椅子は座ることをアフォードしません。
あるもののアフォーダンスを考える時、テクスチャは主に素材に由来するため固定的(要素還元主義的)な意味あいをまとっています。
金属は冷たい、重い、硬い、などの素材の特性は、そのまま金属質のテクスチャに感じる事です。
しかし最近、新素材や技術革新により、テクスチャーが新しいアフォーダンス、新しい意味を獲得しているのでは、、と思うようになりました。
20年ほど前はモニターに動く映像を2〜3歳児に見せた時、じっと見入ることはあっても手を出すことはありませんでした。言葉でのコミュニケーションが未発達だと、GUIは上手く行かない、というような説明をする人もいました。
しかし、今では手を出して「操作」を試みる子供たちは少なくありません。YouTubeでも幼児が使いこなす動画が沢山ありますね。
この変化の要因はさておき、アフォーダンスの観点で言えば、モニターが操作をアフォードする様になったと言えます。
モニターの形状も表示される映像もそれほど変らないのに、映像という「テクスチャ」の意味が変ったと言えるかも知れません。
また、アルミは金属でありながら「軽い」素材でしたが、最近はシーンによっては「重い」素材になってきました。自動車のボディなどがカーボン等の新素材に取って替られたからですね。
ガラス、木材、繊維等々、伝統的な素材にも、旧来のイメージや使用法にこだわらない可能性がひらかれて行くでしょう。
綺麗なもの ― 2011年02月09日 23:59
私は、手に届く範囲の小さい「綺麗なもの」を年に一つくらい買います。
これは昨年末に買ったスワロフスキーのアヒルです。ルビーのような色が光によって赤くなったり紫色になったりします。
そして、これらの自分で買い集めたものを観ると、なぜか旅をしているような気持になります。でも旅先と買ったものとは直接関係がないようで、このアヒルからはまだ行った事のないトルコを想起していました。
私は旅が好きですが、体力を使いますしいい事ばかりではありません。それでも、時間が過ぎて行くと嫌な経験も含めて楽しい記憶として積み重なって行きます。
その凝縮が「小さな綺麗なもの」から想起されるのでしょうね。
「綺麗さ」の有用性が少しづつ判ってきていますが、人の中にある幸福や行動や強い気持を引き出すことができること、、これが最も大切な事かもしれません。
これは昨年末に買ったスワロフスキーのアヒルです。ルビーのような色が光によって赤くなったり紫色になったりします。
そして、これらの自分で買い集めたものを観ると、なぜか旅をしているような気持になります。でも旅先と買ったものとは直接関係がないようで、このアヒルからはまだ行った事のないトルコを想起していました。
私は旅が好きですが、体力を使いますしいい事ばかりではありません。それでも、時間が過ぎて行くと嫌な経験も含めて楽しい記憶として積み重なって行きます。
その凝縮が「小さな綺麗なもの」から想起されるのでしょうね。
「綺麗さ」の有用性が少しづつ判ってきていますが、人の中にある幸福や行動や強い気持を引き出すことができること、、これが最も大切な事かもしれません。
春香 ― 2011年02月10日 23:59
雪道 ― 2011年02月14日 23:59
贈り物 ― 2011年02月15日 23:59
私にとってデザインは「贈り物」です。
他者の存在が個性を開き心を育む事は良く知られた事ですが、デザインも実際のいらっしゃるどなたかに喜ばれることがとても重要なのです。
さて、昨日はチョコを贈る日でした。(笑)
娘の学校は一律禁止ではなく「マナーを守り配慮ある方法なら可」ということで、子供たちなりに気を使ったタイミングで配ったり貰ったりしたようです。
このルールに至るまでには先生達の試行錯誤があったのでしょうね。
このルールの善し悪しはともかく、「配慮ある方法」という表現には「人に物を贈る事」の難しさが滲み出ていますね。
傍観者まで含めた配慮をもって贈る、そうまでしてでも贈りたい何かがあります。
この「何か」が、デザインにおいては、そのモノを作る主体的でかつ客観的な動機になる、、そう考えています。
過去記事:「デザインは贈り物」
http://dmc.asablo.jp/blog/2009/03/09/
他者の存在が個性を開き心を育む事は良く知られた事ですが、デザインも実際のいらっしゃるどなたかに喜ばれることがとても重要なのです。
さて、昨日はチョコを贈る日でした。(笑)
娘の学校は一律禁止ではなく「マナーを守り配慮ある方法なら可」ということで、子供たちなりに気を使ったタイミングで配ったり貰ったりしたようです。
このルールに至るまでには先生達の試行錯誤があったのでしょうね。
このルールの善し悪しはともかく、「配慮ある方法」という表現には「人に物を贈る事」の難しさが滲み出ていますね。
傍観者まで含めた配慮をもって贈る、そうまでしてでも贈りたい何かがあります。
この「何か」が、デザインにおいては、そのモノを作る主体的でかつ客観的な動機になる、、そう考えています。
過去記事:「デザインは贈り物」
http://dmc.asablo.jp/blog/2009/03/09/
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