「洋式」ってわかりづらい?2012年09月03日 23:35

先週は熱海まで行く用事があって、いい天気の中をドライブしてきました。
横浜から熱海までは「やっぱり車の運転が好きだなぁ」と思うコースで、高速、海辺、くねくねの山道が続いていました。

さて、その途中、リニューアルされたばかりのサービスエリアで見かけた説明書きです。

トイレの説明書き(2012)
中国語(繁体・簡体)とハングルで使い方が書かれています。
トイレ内の正しく座らないと読めない位置に貼られている事にちょっと違和感を覚えながら、近隣国からの旅行者が増えているんだなぁとあらためて思いました。

トイレの説明書き(1974)
こちらは熱海で見かけました。1974年、約40年前のものです。プライベートな施設なので残されたままでした。
70年代はまだ洋式トイレの説明が(もしくは説明書きが)必要だったのですね。

椅子は座る事をアフォードしているといいますが、「穴の開いた蓋の上に座ることをイメージ出来ない」ということは容易に想像出来ます。文化が違いますものね。

話は飛びますが、この例ようにアフォーダンスも文化により、また習熟度により異なると言う事は自然な事です。ですからある機器に「自然な操作感」を感じたら、それは貴方のためによくデザインされたものと言えるのですね。

「名のないもの」との出会い2012年09月04日 23:20

偶然なのでしょうけれど、「名のないもの」との出会いが同時に3ヶ所で企画されています。

「ほんのまくらフェア」
新宿 紀伊国屋本店 9/16まで
 http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20120725000000.html

「CDブラインド販売」
渋谷 残響ショップ 常設
 http://www.drillspin.com/articles/view/139

「用の美とこころ 民藝展《展示・即売》」
日本橋 高島屋 9/10まで
 http://www.takashimaya.co.jp/tokyo/event/index.html#os967

先の二つはあえて名を伏せて先入観を取り払い「作品そのものとの出会い」を標榜しています。
民藝展は匿名のものだけではありませんが、伝統的な職人技に対して個人名の比重は相対的に抑えられています。
いずれも話題になっていますので既に行かれた方も多いでしょう。

あえて「無名の逸品」との出会いを演出している言う意味では、やはりその場への思い(バイアス)があっての販促には変わりませんが、注釈や物語過多を感じているからこそ、共感を得ているのかもしれません。

それでは本当に先入観を排して作品と出会う事が出来るのでしょうか、また私はその状況で自分の中で納得の行く選択が出来るのでしょうか、日本の特徴であると言う匿名性を有意な特質として感じる事が出来るのでしょうか、、明日から順に体験してこようと思います。

評判の力「ほんのまくらフェア」2012年09月05日 23:16

昨日書きました通り「名のないものとの出会い」を体験してきました。
今日は「ほんのまくらフェア」 です。

ほんのまくらフェア
書き出し(これをこのフェアでは「ほんのまくら」と名付けています)のみ印刷されたカバーが掛かり、中が見えないようになっている文庫が100冊。
この写真と棚がもう一つの小さなコーナーでのフェアですが、全てに特製のカバーがかけられ、全てに手書きの紹介文が添えられていて、かかる情熱を感じますね。

ーもう中身もみないで、自分の「まくら」に対する感覚で本を選ぶのって楽しいかもしれない(略)きっと不思議な本との出会いが待っているはずです。ー

そう書かれた通り、100冊全部のカバーに目を通して、書き出しから受ける物語への予感と語り口で印象に残るものを探しました。

・・うーん、、私には選べないかなぁ。。
本当に書き出しの数行、本によっては一文のみの「まくら」からでも伝わるものがあります。しかし、その先をもう少し読みたいかどうか以上の気持ちにはなりませんでした。
ただこれは作品と今日の私との相性と言うのが一番大きいのかも知れません。その意味で「純粋な出会い」は私にはありませんでした。

とは言えもう少し読んで見たい、というのもいくつかありましたので、添えられた紹介文にも目を通しました。

ほんのまくらフェア
紹介文。

この紹介文は想像以上の影響力ですね。ぱっと立ち上がるものをかなり左右します。そして何より「読んで見よう」という気持ちにさせます。

購入した本
そうして選んだ3冊です。

購入した本
カバーをとったところ。
ほぉ、見事にばらばらで、2冊は(失礼ながら)存じ上げない方です。

それぞれ数ページを読んだところでは、まくらで思い描いたイメージに近いもの、近い所と遠い所のあるもの、全然違ったものにきれいに別れました。

企画趣旨は「まくら」でしたが、私にとっては「紹介文フェア」と言えまして、紹介文の「評判の力」(もしくは私自身が気にしているのが実は評判の方であること)を改めて実感する経験となりました。

小説は好きですしそこそこ読める方だと思っていた私にとって、書き出しで選べないと言うのは自分の読み手の実力を見透かされたようでちょっとショックかも。

ちなみにネットの試し読み販売等を見ますと数ページから数十ページ読めるようになっています。こちらは物語りを実際に味わえるので判断しやすいですね。

「ほんのまくらフェア」 
新宿 紀伊国屋本店 9/16まで 

音楽の好みって難しい2012年09月06日 23:00

「名のないもの」との出会い、今日は「渋谷残響shop」でCDのブラインド販売です。

残響shop
店頭。

CDのブラインド販売
入ってすぐの試聴コーナー。
「音楽との出会いを提供したい」という思いは、CDケースに添えられた手作りのカードの丁寧さにも現れていました。

早速カードに抜き書きされた歌詞を眺めます。昨日の「まくら」の戸惑いが残っていたため歌詞から選ぶことに一瞬だけ気が重くなりましたが、試聴ですので印象にのこったものをピックアップしました。音楽は好きか嫌いかは判りやすいので、どんどん飛ばし聴きしていけます。

しかしなかなかこれというのがなくて、お店の方に幅広くランダムにピックアップして頂きました。
この時、音楽の好みを伝えるのが難しかったです。ジャンルだとこれというものがない(クラシックでも演歌でもロックでもポップスでもアニソンでも好きなものがある)ので、好きな曲を羅列しました。言いながらその統一感のなさにちょっと腰が引けました。(うーん、昨日から続けてダメなワタシを見せられているよう)

お勧め頂いた中から「テクニカル」「ポストクラシック」と呼ばれる2つのジャンルのものが印象に残りました。

そして購入したのがこちらです。
CDのブラインド販売
アイスランドのÓlafur Arnalds(オーラヴル・アルナルズ)さんの「...And They Have Escaped The Weight Of Darkness」
現代音楽ですね。

自分としては「えぇ?まさか!」というチョイスです。でもこれ素敵な音楽なんです。
これは「出会い」でした。

これ一枚で「現代音楽も好き」というのははばかれますが、、やっぱり音楽の好みって難しいですね。その難しさを越える機会として、試聴(販売)は有効なのでしょう。

昨日の「本」、今日の「音楽」、2つの「タイトルと作家名を伏せられての購入」を経験しました。本は中身まで伏せられているので同じ条件とは言えませんが、欠落が「手にとって見よう」と思わせる「引き」であることは確かなようです。

そう言えば子供の頃「プロ野球カード」で目当てのスターの替わりにひいた選手が好きになったと言う話しを誰かしていたような、、。「縁」というものに感じる特別な感情の仕業なのでしょうかね。

「CDブラインド販売」 
渋谷 残響shop 常設

民藝再び 「自分はいいものを選ぶ」の時代2012年09月07日 11:01

「名もないものとの出会い」、今回は「民藝展」です。

民藝展
ポスターには「用の美とこころ」とあります。

私の大好きな柳宗理さんの父、宗悦さんや河井寛次郎さんたちが興した「民藝運動」は、大正末期の日本で伝統的な手仕事の良さを再発見する運動でした。当時全国から集めた「民藝品」は大変好意的に受止められたようです。
(事実、各地で「民芸品」が作られるようになって行きました。)

民藝展

今回は70年前の民藝展の続き、第2回と位置づけて1年がかりでバイヤーが買い付けたものたちだそうです。手あかのついてしまった「民芸品」を、もう一度「民藝」として再評価しようと言う思いが込められているように感じました。

民藝展
「柳宗理デザイン」のものなども「民藝」を受け継ぐものとして紹介されています。

樺細工
母に買った樺細工。
桜の樹皮を何故樺と呼ぶのか訊き損じましたが、軽くて精緻で渋くて収まりのいい茶筒です。

いやぁ、手に取って購入出来ると言うのは普通のことですし、普段見慣れている事もありますので、今回の「名のないものとの出会い」の中では最も冷静に品定めが出来ました。
道具類は長く使わないと評価が難しいのですが、そこが「長く愛されてきた」「選び抜かれた」という前提が補っています。初めて見聞する職人の名前、佇まいも信用に足る姿をしています。ですから決して安くないお値段でも安心して買う事が出来ます。その意味では決して無名ではありませんね。

民藝が盛んになった大正末期は、明治から続く外国文化の受容も一息つき、第一次大戦の戦勝国として好景気に沸いたことも自尊心を高めて、自分達の文化を見直そうという気運が高かったのでしょう。ファッションを謳歌した「モボ・モガ」もこの頃です。また「大正デモクラシー」と呼ばれた政党政治、つまり一般人の政治意識が高まった頃でもあります。震災があった事も付け加えまして、これらの世相が現在と類似しているという言説も見かけます。(もちろんだからと言って同じように世が進むと言うのは早計だと思いますけれど)

さて、、今回「名のないものとの出会い」という切口をなかば強引に見立てて三ヶ所を廻りましたが、共通していたのは「自分でいいものを選ぶということの疑似体験」だったかもしれません。
少なくとも私自身は、本では「紹介文」に、音楽では「店員さんのセレクト」に、民藝品では「バイヤー」へ無意識の信頼がありました。(そもそもそこを疑ったらこれらの企画自体が成り立たないと思いますので)そして購入後に知るそられらの素性に納得と手応えのようなものがありました。
無名という形が、バイアスの掛かっていない「本当の価値らしさ」を感じさせ、名を知る事で「選んだものが良いものである」という付加価値を付けている、、言い過ぎでしょうかね?

私が共通に感じたものが「自分自身の価値観で本当のものを選びたい」という気分によるものだとしたら、それはとても納得の行くエクスキューズだと思います。

[自分はいいものを選ぶ]という時代感覚が正しいとしましたら、ある意味では嬉しく、またある意味ではちょっと重たいなぁ、と感じています。

「用の美とこころ 民藝展《展示・即売》」 
日本橋 高島屋 9/10まで 
dmc.
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