失われた感性のかわりに2011年03月02日 23:59

現代の西洋文明の道具を使えない密林に住む部族が、驚くほど自然を熟知し、感知し、利用する場面を目の当たりに見ると、彼らの知能が決して劣っているのではないことに感嘆するそうです。

「未開」という言葉がありますが、決して未開なのではなく、環境に則して培われてきた知識体系が異なるのですね。
森に対する深い造詣、状況を察する能力は、狩猟民として生きるために必須なものです。

長く農業と漁業を営んできた私たちは、風を読み船を出すべきかどうか、わずかな季節の移ろいから田植えをすべきかどうか、森の狩猟民とは異なる自然への深い知識と方法を伝えて来ました。

今、これらの感性が急激に失われていると言われています。
例えば、ナビを使うようになって地図が読めなくなってきた、照明になれて暗闇で歩けなくなってきた、魚群探知器になれて海が読めなくなった、、などなどですね。
私たちは失い続けている、と何方かも言っていました。

しかしただ失っているだけなのだろうか、、そういう疑問も浮かびます。

iPadを使いこなす未就学児、ブログを使いこなす小学生を見れば、彼らには私たちにはなかった何かが育まれているようにも思えます。
携帯電話を所持した事のない私の娘たちも、初めて渡された機種でも隅々まで使いこなします、会話しながらブラインドでメールを打てる子供も珍しくありません。
彼らには彼らの世の中を生きて行くための必要なものが備わっている、、そんな風に思えています。

願わくば、人として備わった感性を存分に発揮出来る環境と、新しい時代に必要なものを両立させるものにして行きたいです。
dmc.
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